快楽を「再現しようとすること」は、魂の郷愁
いま、あなたが感じている官能は、ただの快感ですか?それとも神の影ですか?
快楽はそのままでは、神そのものではない。
しかし、快楽のなかに、神の“影”が差すことはある。
今回も魂と官能についてです。
ただの思想や理屈ではなく、
この生々しい肉体を生きる人間として、
神性と現世をどのように統合していけるか──
❶ エクスタシーには、強さのグラデーションがある
エクスタシー(歓喜)は、強度によって、
「魂を開く力」にも、「肉体に執着させる力」にもなる。
ごく普通の快楽は、肉体意識のレベルにとどまる。
それは身体の快を伴うが、同時に「むさぼり」や「所有」につながりやすい。
結果として、人は身体を通して“執着”に絡めとられていく。
肉欲、性欲にはまり、その肉体意識の、向こう側に広がるものを望郷する可能性もある。
❷ 快楽を「再現しようとすること」は、魂の郷愁
誰もが一度感じた、あの“至福”をもう一度。
それは、悪いことではない。
生まれる前は、どんな人も常に体験していた至福、エクスタシーという全体性。
ただし、身体だけで再現しようとすると、
神意識ではなく、「肉体の牢獄、記憶」に閉じ込められてしまう。
身体は道具ではあるが、そのままでは、神そのものではない。
その見誤りが、人間を現世に縛りつけてしまう。 ぬまり、苦しむ。
❸ 官能への渇望の裏には、「魂の記憶」がある
エクスタシーには、本来「意識の解放」や「内なる広がり」がある。
必ず内包している。
だが、多くの人はそこに気づかない。
そのため、ほんの一瞬の開放感の記憶を追いかけ、
再び身体の快楽へと戻ってくる。
人間が渇望しているのは、
快楽そのものではなく、
快楽を通して一瞬だけ見える“神の影”。向こう側の、広大な世界を見たい。そういうこと。
❹ 神の影を味わうことは、罪ではない
たとえそれが“魂の本質”まで届いていなかったとしても、
快楽という体験の中で、人は何か神聖なものにある程度は触れている。
「最大のエクスタシーの奥には、神がいる。
その“端っこ”でもいい。影でもいい。
人間は、その残響を味わうことで、今を生きている。」
快楽は、罪ではない。
エクスタシーは、罰されるべきではない。
それが「聖」に届かなくても──
それでも、それを通じて、神がそっと見ている。
⑤ 肉体でしか味わえない歓び
故郷に帰れば、肉体は脱ぎ捨てられる。
あのやわらかなぬくもり、
肌と肌がふれあう悦び、
脈打つリズムとともに感じる官能の波。
それらはすべて、この現世にしか存在しない。
魂の世界では、快楽は“記憶”となり、
体験としての肉欲的な歓びは、そこでは再現されない。
だからこそ、
この「今、ここ」に肉体を持って生きていることは、
何にも代えがたい贈り物だ。
禁欲主義で自分たちの首を絞めている現代人にとっては、
官能をかみしめることは、つかの間の休息・癒し体験。
肉体を通じて感じる快楽は、
魂にとっての一瞬の祝福。
聖に至らずとも、それはそれで尊い。
肉欲的な歓びは、今だけの祈り。
魂のふるさとでは決して触れられない、
この世だけの、特別な扉なのだから。
Q あなたは、今感じているその官能に、神の気配を感じる事はありますか?