理性で理性を超えるという逆説:ニーチェ、デリダ
理性で理性を超えるという逆説:ニーチェ、デリダ、マクギルクリストたちの挑戦
日本にながら、日本からの出ることを拒みながら、「日本以外の国もあるにちがないよ!」と訴える。
もしくは、「英語を話しながら、英語以外の言語もあると伝えるような行為」 この一文は、現代思想やスピリチュアルな知性の本質を、残念ながら、驚くほど的確に表現しています。
たしかに、ある社会の体制を批判する時には、体制を支配している側の理論や制度に乗っ取り、逆利用することで、その体制は変化することが出来る。例えば、サイードが行ったような、西洋中心主義を批判するには、西洋のど真ん中の、学術てきな言葉で、初めて西洋中心主義の批判として成立する。構造の内側でしか批判が成立しにくい。そういう歴史も存在してきましたが。。。
でも、それでは――
使っている人間の理性の限界を、あくまで理性の内部で議論する。そんな矛盾から永遠に出られません。 これが、繰り返されてきたのが、現代の知性における、大部分の歴史だと言えます。
1. ニーチェ:理性で理性を超えようとした者
ニーチェは、理性の文章を用いながら、理性を超える「ディオニュソス的体験」を称えました。
その言葉はしばしばパラドクス、相矩的、謎を含んでいました。
「言葉は真実を隠す。だが、私はあなたの眼をふたたび、聞こえない声の方に向けたい」
「理性」や「文章」ですべてを指し示すことはできない。 だからこそ、その不備感に気づくための文章を書く、それがニーチェでした。
神秘体験の大きな憧れ。そしてその神秘主義を賞賛する立場から、西洋の知性主義を批判しながらも、
でもその神秘的なスピリチュアルな「脱3次元体験」の世界のには、自分は足を踏み入れない、もしくは、踏み入れる方法を良く知らない。。。
そんな矛盾に立っていたのがニーチェです。
従って、理性による理性の批判の範囲にとどまったのです。
前の記事の話に戻れば、彼は3次元中心主義を批判した人です。
3次元だけでは、全然物足りない。
それはニーチェにおいては、特に初期には明らかに見て取れます。
ただし、彼はそこで止まってしまった。
理性により、理性を超えようとした。
脱3次元意識・スピリチュアルな神秘体験への賞賛と、理性批判に終わり、
高次元意識への参入はされずに終わりました。
理性をもっと高い意識から批判する。それは行われませんでした。
2. デリダ:言葉の不可信と「脫構築」の大きな見落とし
デリダは、「言語は意味を伝えるものだ」という一般的な感覚に疑問を投げかけました。
ソシュール以来、言語は関係の網であり、固定的実体でないとされました。
構造主義以降、言語はもはや実体ではなく、関係性の網とされていました。デリダはその関係自体にも安定がないことを示しました。
デリダは、言語は伝達のための道具のように見えて、実際には「意味を確定させることなく、むしろズレさせ、遠ざける」ものだとしたのです。
言語は「意味を決して最後まで確定させないまま、できないまま、いつまでも、宙ぶらりんのじょうたいにするもの。」と、見事に見破りました。
そのため、定義をみずから揺るす、「脱構築」という知的方法を操り、あたらしい批判の方法を切り開いていきました。
「我々は、現実を探るのではない。 現実が、我々の推理によって構成されている」
でも、これもまた、言語によって、言語の限界を説く、そんな通路でした。
脱構築とは、あるテキストや概念の中に内在する前提や、二項対立、安定構造にゆらぎを与え、固定された意味を解体していく試みのことです。
人間が依存している言語というものは、安定した伝達の道具ではなく、
もともと構造的に不安定であり、揺らぎの中でしか意味を生み出さない。
たとえ精密に見える理論体系でさえ、実は曖昧な概念や流動的な記号の寄せ集めで構成されており、
それ自体が一つの仮構にすぎない。
デリダは、その構造を内側から照らし出し、意味の安定や普遍性といった前提が、いかに根拠の曖昧なものであるかを明らかにしました。
これが彼の「脱構築」という思考の中心です。
しかし、脱構築するその理性は、脱構築しなくてもいいのか?
その疑問に答える事はありませんでした。
西洋の形而上学を中心とした、知性の構造の土台を、明晰で深遠な彼の知性により、批判していく。
しかし、知性を批判している知性そのものは、批判されない。
知性を批判する知性の立場は、温存されるという、無批判な構造になっています。
知性の絶対化からの出口は模索されませんでした。
3. マクギルクリスト:左脳的現実の制有に投げられた知性
左脳は、何もかも分解し、文章化し、名前を付け、可視化する。
しかしそれは、実は「現実の一部分のモデルにすぎない」と、マクギルクリストは言います。
そこにあるのは、この社会の「左脳の大帝国」ともいうべき裏面です。 『The Master and His Emissary』
「我々は、自らが編集した現実を、これが全てだと勘違いしている。 その現実は、左脳が作り出したステージにすぎない。」
この「左脳的メタ依存」は、「3次元しか現実でない」という情報社会の前提を強化し続けてきた原因でもあるのでしょう。
しかしここでも、知性という道具による、知性の批判という形が繰り返されています。
知性の限界を乗り越えるには、知性を出てみる必要があります。
脱肉体意識・脱3次元意識を体験しないことには、
かつてのソクラテスが繰り返し話したように、
肉体を持っている時の知性、すなわち、3次元意識での知性の限界を十分に見破れないだけでなく、
日本にいながら、日本の外の世界のことは、体験できません。
英語を話しながら、英語以外の言語を使うことはできません。
世田谷区にこだわり、そこから出ようともしないで、世界の文化を直接味わうことはできません。
脱3次元意識の状態での知性——それはソクラテスが哲学にはかならず必要であると語ったものですが——
そのような超越的な知性によって、世界や宇宙を眺めることはできないのです。