AIと読書術の終焉:AIと読書の未来地図:知識から在り方へ第1回
速読・要約・知識の時代は終わった
「本を読む子は、心が豊かになる」
そんな言葉を、子どもの頃に何度聞いただろう。
図書館の静かな時間、夏休みの読書感想文。
私たちは、小学校の朝の読書時間や図書館通いを通して、
本を読むことの価値を、自然に刷り込まれてきた。
学力をあげるには、読書がとても重要だ。それが常識であった。
だって、本を読めば語彙が増える、想像力が育つ、集中力がつく。たしかに、それもそうだ。
その上、読書は、人格をつくり、人生を深める大切な営みだと信じられてきた。
そして成長するにつれ、それは“武器”にもなった。
読書量は知識量につながり、知識は会話力や論理力、
さらには仕事や面接でも評価される“能力”となっていった。
つまり本は、「人格形成の土台」であり「知的優位性の源泉」だったのだ。
読書で得た教養を見せると、例えば職場の同僚にも信用され、クライアントにも尊敬もえられる。そんな時代が今まで続いてきた。
本当の教養家・読書家って、AIのことじゃない?
人間は動物ではなない。人間は昆虫ではない。アメーバーでも、プランクトンでもない!
だって、人間は読書が出来るから! だから人間は特別だ! 人間は頭が良くて、読書という、すごいことを出来てしまうんだぞ!
こういう人間についての我々側の理解が、長い間存在した。
読書はある意味、人間の生物としてのステイタスシンボルだった。読書は、地球の王様としての証明だった。
だが今、その前提が根底から揺らいでいる。
なぜなら、AIが読書の能力で、人間を圧倒しているから。
かつての「読書術」と呼ばれるもの――速読・要約・メモ術・マインドマップ・読書ノート――
それらは、知識の取得や整理、アウトプットのために開発された、いわば情報処理スキルだった。
だが今では、こうしたスキルはAIの方が遥かに優れている。
それだけではない。
読書能力、いや知的理解全体についていえば、
人間がAIの前では、「動物」や「昆虫」にもみえてしまう。そんな時代がやってきたのだ。
AIは本を数秒で読み、要約し、テーマ別に分類し、要点を比較し、。。。。さらには音声で読み上げることさえもできる。
人間はすぐ忘れる。人間は簡単に誤読する。集中して文字を追える時間も、長くは続かない。休みも必要だ。
でもAIは、一度読んだことを忘れず、瞬時に再構築できる。永遠に知識を習得し続けられる。
記憶力、検索力、長い複雑な哲学書の構造全体の把握力…… 余裕でこなせる!
単なる表面的な情報処理だけではない。軽薄な理解に留まらない。
AIはとても繊細で、とても深いレベルの、理論的な、そして驚くほど柔軟な理解をも得意としている。
難しい論評も、高度な学説批判も、数秒でやってのける。
これまで人間の「読書力」と呼ばれてきたものの大部分が、
AIの前では人間が誇る“特殊技能”ではなくなるのだ。
人間が憧れてきた、理想の教養人、「憧れの読書家」の存在は、もう既にAIが簡単に実現してしまったのだ。
人間的な読み方とは
AIは読書の内容は完璧に再現できる。でも、AIにはできないものがある。
それは、本を読んでいる時の、人間としての体験だ。
人間という存在としての読書の体験、読書の“内側”――魂の響きの現場は、AIには参入できない。
だからもはや本は、知識のための道具ではない。
「知っている人になる」ために読むのではない。
人間としての実存を磨くため。実存を深めるため。「変わっていける存在になる」ために読むのだ。
だからこれからの読書には、
速さも効率も、成果も要らない。 それはあくまで副次的。主役ではない。
必要なのは――
変わることを恐れない開け。
人間としての揺らぎを許す、静けさ。
AIには絶対に触れることができない、自分という“存在の深み”への旅に出る覚悟。
私たちが本を読むのは、
ただの“知るため”ではない。
本当に“在る”ためだ
人間とは本来、余白のこと。
無限の広がりのこと。
その為に読む。
読む=開ける
知識の、その先へ。