AIは“文章”の世界を圧倒する?:
【AIが文章を壊しても、人間が書く意味は絶えない。】
――なぜ、AIは“文章”を圧倒するのか? それでも人間の書く意味とは?
【イントロ】
文章を書く能力については、ChatGPTは、物凄く優秀なのである。
他のAI、Claude、Gemini だって、おそらく同じであろうと思う。
これらのAIは、既に小説、ブログ記事、ビジネスレター、さらには難解な思想系の文章までも、
簡単に書きこなせるようになっている。 ChatGPTについては、完全にそうである。
「無駄なく」「分かりやすく的確に」「論理的に」「深く」「繊細に」文章を、簡単に書くようになった。
今まで、ブログ記事を、書くのは人間であった。
それで生活を支えている人たちも、今でも少なからずいる。
しかし今、ブログ記事を、AIが自律的に「量産」しはじめる未来は、すでに始まっいているといわれる。
特に、情報処理系のブログや記事は、真っ先にAIの置き換え対象になる可能性も否定できない。
ブログ記事の中でAIが得意とするジャンル
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旅行記事のテンプレ化
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商品レビューの比較まとめ
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健康や美容の「情報を並べる」系
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哲学や歴史の解説や、深堀り記事
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「メリットとデメリット」の比較など
これらではすでに、AIが人間の指示なく記事を書き、ブログ更新を続ける時代に入っているらしい。
文書を書くことを中心に生きてきた人にとって、大きな津波が起きはじめている。
ブロガーは自分の職を失い、自分の社会人としての居場所も奪われるかもしれない。
(たとえばある企業では、自社サイト用の1万記事以上をAIで生成して公開済みらしい。。。)
ではもはや人間が、ブログやエッセイなどを「書く意味」は失われたのだろうか?
答えはNOである。
ただしそれは、「なぜ書くのか?」を再定義することを求められる時代に入った。
【PART1:AIが残酷なまでに強い文章のジャンル】
- 膨大な情報の整理と要約
- 「知識のまとめ」などのまとめ系
- 教養の分野での解説・説明系
- ハウツー系や、対応策のまとめ
これらでは、AIの方が何百倍・何千倍もの量を、書き直しもしないで、正確で美しく、上手くまとまってかける分野だ。
その上、AIは完璧にSEO対策をしながら文章化できるのだから、AIの書いた記事は、
検索の上位で、人間の文章を圧倒していくかもしれない。
だから、これからは人間にとって文章を書くことは、ただの「アクセス数」のためではない方が、精神衛生上好ましい。
この様な、表層的な・機械的なAI生成コンテンツが、どんどんと世の中に出回るフェーズが、これからすぐにくるであろ。
顔出し不要・音声合成・汎用映像素材で量産されていくので、
簡単・見やすい・手軽でスピード感が重視される分野は、AIの独占領域となる。
だだし、その真逆の方向性も、これからは大いに求められていくはずである。
AI臭くない分野。
それは何だろうか?
AIに書けない、または書いても、リアリズムにかける領域
情報処理的な文章だけではなく、驚くことにAIは、人間味あふれる、人間臭い文章は、すでに上手に書けてしまう。
人間味あふれる文章でさえも、驚愕するほど上手いのだ。
でもそうではあっても、
AIが人間として書くことは出来ない。
すなわちAIは、「誰が書いたか」が重要でない記事ジャンルでは、人間を圧倒出来ても、
書き手の個人名がつくことで、作者の世界観や、生きざまが、文章の輝きに重なってくるような分野では、
人間にはかなわない。
AIは自分自身と、向き合う必要がない。
AIは、自分自身のことについて、苦しんだり、励ましたり、自分のことで、大はしゃぎしたりはしない。
自分について、悩むことができない。
AIは「なぜ自分は生まれてきたのか?」と探求する必要性もない。
自分の生死に関して、自分の人生の意味について、自分の人間としての価値について、切実な探求は生じない。
その様な、人間が必ず向き合う質問には、向き合う動機さえもない。
自分の生きがいについて、自分の生い立ちについて、自分の学生時代について、
内省する意味を、AIはもたない。
それをAIが模倣、真似はできても、文章化するうえで、人間が有利なのは揺るがない。
「自分が高校時代にもしサッカー部を止めていなければ、いまごろ自分はプロのサッカーの選手として。。。。」
などど、AIは後悔することがないのだから。
そのリアリズムを、言葉にすることは、たとえ上手な模倣ができても、
重みや具体性にかけてしまう。
学生時代も、両親も、子供の時に育った家も、行きたくなかった学習塾も、AIはもっていない。
思い出をもたないのだから。
あなたは、あたらしいことばで、あなたの立場から、あなたにしかない思い出を書ける。
だってあなたの人生は、あなたしか今まで生きたことはないのだから。
あなたが初めて自転車に乗れた時の、
「となりにいたあなたの母親のあの誇らしそうな笑顔」を、AIは体験していないのだから。
思い出を持たなくても、そうであるかのようにAIは振舞うことは言語上できるし、
その様な文章も書けてしまう。
でも、この分野においては、断然に人間が有利であり続ける。
この分野では、人間は無数のテーマに囲まれ、まだ自分の中で整理できていない出来事は
どんな人の中でも、山積しているのだから。
思い出を言葉にすることそのものに、疑問を抱えながら書く体験は、AIにはできないから、
それを文章として告白することも出来ない。
だからいくら上手に、思い出を持ったかのように文章化できても、
「この人だから、この文章が出て来る」というほどの、すごみが出せない。
なぜか、この問いにひっかかってしまう。。。という、心の疼きもない。
人はいつも人間関係の中に生きているが、
AIには、人間関係がない。人間ではないからだ。
だから、愛されたい!とも思わないし、
人気者になりたい!ということもなければ、
孤独になりたくない!ということもない。
文書を「語る主体」として存在しないから、他人に愛されたいことについて、
書く動機や熱量がはじめから存在しない。
「なぜあの時自分は友達に嫌われたのか?」と、自分で深刻に問いたくなる衝動さえもない。
AI時代に、「人間が書く」ことは、生きものらしくなることだ
AIは、コピーできるし、模倣は得意。
だから、たとえ文書が下手でも、生身の声で語ることがたいせつになる。
痛みや、静けさやの流れを、言葉の間に漂わせることは、AIにはまだできない。
そこに、書くということについての「命のささやき」がある。