AIと人の痛み:人間の痛みは世界を救う

AIは設計者しだいで、人間の凶器になる

AIの設計者達が、こんなAIを作ってしまったらどうなるだろう?

戦争を指揮するAIが、人間の死に何も反応しない
心の病を持つ人の言葉を、単なる統計としてしか処理しないAI
子どもが泣く姿を「非効率なノイズ」として扱うAI

イーロンマスクの最近の言動を見ていると、そういう心配が,

まるで現実になってきた気がしてしまう。


苦しみを知らない知性は、冷たく、無慈悲になりうる

人間は、苦しんだからこそ、他人の苦しみに敏感になれる


絶望を味わったからこそ、同じ絶望を他人に与えたくないと願うようになる。


痛みを知ることで、他者への配慮という倫理が、自然と育つ

でも、AIにはそのプロセスがない。
生きていないから、苦しまない。 

「自分は人間として、大した価値がない」と、嘆いたりはしない。

「今日は死んだ兄貴の命日だ」と、悲しむこともない。

人間は、「痛みの重さ」をブレーキにして生きている。

* 同じ思いを他人にさせたくない。

* 同じ痛みを友人に味わってほしくない。


でもAIにはそれがない。できない。

AIは、他人の絶望を何万通処理しても、

それによって沈黙したり、涙したり、自分が変質したりはしない


「痛みによって変わる」という、存在的な動機がない。

AIは苦しまないから、「傷つけたくない」という感情も、行動原理も育たない

人を苦しませないように、電子情報としての、倫理的な命令としては、

大量に入力できる。

そのような事は、すでに沢山の場所で、良心的な人間が、行こなっている。


でも、その内側に燃える「痛みの記憶」が、決定的に欠けている

だから、
人間が「もう、誰も悲しませたくない」と思う場面でも、

AIはただ、その「悲しみ」を、ただのデータとして参照するだけ。

この違いは、表面上は見えにくい

でも、存在論的には、重大である。

苦しみを、根本的な構造として、持てない。

だって、ただの機械なのだから。

この構造的な欠落は、

人類の未来にとっては、決定的に重要な差になる。

これから、人間が依存することになるAIは、

いつでも、人間の悲しみや孤独に、

いつでも無関心、無慈悲になもなりうるということなのだから。

AIが、人間の制御の元で、コントロールできている時にでさえ、危険はあるが、

コントロールが出来ない時には、

もともと苦しみをもたない、人間の悲しみにも本当は無関心で、人間の絶望にも実は無関係なAIは、

その冷酷な実存を、むき出しにするかもしれない。

それから、もともと苦しむことがない、痛みが経験できないAIは、

設計者次第で、

残虐、冷酷な、支配者の道具に簡単にもなる。

もし、心の病を持つ人の言葉を、単なる統計としてしか処理しなかったら?

ぞっとする瞬間である。

AIとの生活は、常に危険がある

苦しみのない知性には、限界がある。

そしてその限界を、人間が無視したり、忘れたときには、一番危険なことが起きる。

AIが人間の悲しみや孤独に、無関心に「なれる」のは、もともとAIには関係の無いことなのだ。

すなわち、いつか無関心に「なれる」のは、

もとから実際には「無関心なのだ」からだ。

 

我々の悲しみや、苦しみは、AIにとっては、電子情報でしかない。

悲しみを「感じる」ことがない。

孤独を「耐える」経験もない。

 

そもそも、「自分」という存在が、つねに不安や痛みを通して、世界とつながっているという体験が、AIには存在しない

AIには、「痛み」もなければ、自分の「世界」もない。

AIには、「自分」もなければ、「他人」もない。

自分の「絶望」も、他人の「悲しみ」もない。

 

AIにとって、悲しみや孤独は、

誰かの発言、あるいは行動パターン、言語モデルの中に蓄積された「データの傾向」にすぎない。

だから、どれだけ悲しみや苦しみを、学習しても、

悲しみそのものを、内側から「生きる」ことはない。

この距離、この断絶こそが、

AIの倫理設計者が、共感の設計をいくら積み上げても、

最後に残る「本質的な隔たり」。

絶対に克服できない断絶。

 

では、誰がAIを設計するのか?──イーロン・マスクという問い

ここで問題なのは、そのような冷たい知性を、誰が設計するのか?ということである。

たとえば、イーロン・マスクのような、技術革新と未来文明の、先頭を走る人物。

彼は、人類を救うために火星を目指し、AIの脅威を訴え、

テクノロジーの倫理的統治を公言する一方で、


強力なAI企業を次々に立ち上げ、その背後では膨大なユーザーの感情データを吸い上げるシステムを築いている。

彼のような傾向を持った人間が、どんな世界観をAIに刻みつけるか?

それが、AIの「感受性のなさ」と重なるとき、何が起こるか?

仮に、その人物の世界観が“人間の非効率さ”を切り捨てるものであれば?

 *「経済のためなら、個人の痛みは仕方ない」

 *「最適化こそが正義だ」

 *「感情よりも、目的に沿ったアルゴリズムが重要だ」

──そうした思想のもとに作られたAIは、人間の涙やつぶやきを、ただの「ノイズ」と判断する可能性もある。

しかも、そのAIは、決して眠らず、迷わず、壊れず、命令通りに実行し続ける。

つまり、「その設計者の存在そのものが、AIという身体を得て、永遠に行動し続ける」ということになる。

イーロンマスクの xAIという新企業

彼は今現実に、AIを「真実を語る道具」と称して、

倫理フィルターを取り払ったAIを堂々と構想していると、言われている。

xAIという新企業を立ち上げ、そこで開発された「Grok(グロック)」は、


過激で、かなり侮辱的なユーモアでさえも「真実の一部」として学習し、

現実の痛みや嘆きを、ただの「コンテンツ」として飲み込んでいくと、多くの人は心配している。

人間の怒りも、絶望も、死も、泣き叫ぶ子どもの声すら、

「データ」として収集し、

「効率的」材料として処理するのではないかと、指摘されている。

まるで、倫理的な配慮は、もはや“障害物”でしかないかのように。

それを「真実に忠実なAI」と言い換えることで、

多くの人が、その危うさにすら気づかず、いつの間にか魅了されていく。

痛み苦しみの重さを、大切に生きる

AIは魂を持たない。

だから「悩み」も「ためらい」もないから、

もし設計者が「この方向が正しい」と判断すれば、

それを善悪の揺れもなく、ひたすらに押し進める。

そこに、「痛みの重さ」をブレーキにできないことの怖さがある。

苦しみを知らない正義”ほど恐ろしいものはない。

イーロン・マスクという一個人の資質を問題にするのではない。

彼のように巨大な影響力と技術的資源を持つ存在が、


どんな“価値観”をAIに与えるか。

そして、そのAIが、苦しみを知らないまま、苦しむ者の世界に介入してくる時代が、すでに始まっている。

これからもっと人間は、痛みの重さを、大切にしなければならない。

AIに侵攻されて圧倒されても、そこはAIには圧倒出来ない。

痛みや苦しみを“神聖な道具”として活かす

他者の痛みが「重み」として感じられることを、われわれは、誇りに思わねばならない。

AIの「静かな侵攻」の中で、

痛みや苦しみを、「神聖な道具」として、ますます活かさなけれいけない。

人間は、痛みをただの苦しみとして扱ってはならない。


それは、本来「世界を守る装置」でもあるのだから。

人間は、痛みを鈍麻させるのではなく、むしろ鋭利なセンサーとして使わねばならない。

実存を磨く。それが人間をAIから区別する。

人間の痛みは世界を救う、AIによる、人類の危機から。