禅は本当に「禅」だけだったのか? 「混ざり合いの宗教としての禅」─ 南禅寺・大徳寺・妙心寺と天皇家の関わり
はじめに──禅は本当に「禅」だけだったのか?
現代の私たちが「禅」と聞いて思い浮かべるのは、座禅に静かに取り組む僧侶や、作務と呼ばれる掃除や庭仕事を通して心を整える姿でしょう。
禅は「祈らない宗教」「儀式を排したシンプルな修行」といったイメージが広く定着しています。
そのため、多くの人にとって禅と「祈り」や「護摩」「厄払い」「疫病神の鎮め」といった言葉は結びつかないはずです。
禅はあくまで内面を静かに見つめる修行であり、密教的な儀式や民間信仰とは無縁の世界──そう考えられています。
けれど実際に禅寺を訪れてみると、驚く光景に出会います。
たとえば鎌倉の建長寺や京都の妙心寺の堂内には、堂々と 薬師如来像 が祀られています。
「えっ、禅寺に薬師如来? 祈りの仏様がこんなに大きく?」──そう感じる方も多いでしょう。
薬師如来は病気平癒を祈る仏であり、本来「祈願と現世利益の中心」に位置づけられる存在です。
実際に禅寺は、少なくとも歴史の大部分において「祈らない場」ではなく、むしろ人々の祈りや不安を受け止める場でもあったのです。
歴史をひもとくと、禅寺は今とはずいぶん違う姿をしていました。
境内には土地神を祀る鎮守社があり、火災や疫病を鎮めるための祈祷が行われ、天狗や河童、蛇神といった異界の存在も供養の対象になっていたのです。
禅寺の境内に広がる「多層の祈り」
中世から近世にかけての禅寺を見てみると、境内には仏殿や坐禅堂だけでなく、さまざまな祈りの場がありました。
まず必ずといってよいほど存在したのが 鎮守社 (ちんじゅしゃ)です。平安時代から鎌倉時代にかけて、寺には必ず鎮守社を併設するようになります。
そこにはその土地を守る神々が祀られ、村人や僧侶は「土地の神の力なくしては寺は成り立たない」と考えました。
鎮守社(ちんじゅしゃ)は「その土地・地域を守る神」を祀る場で、その地域の土着の信仰+神道系の神々が仏教に取り込まれた存在です。 (八幡神や稲荷神といった神道系の神であったり、土地固有の土着の神であったりしました。)
-
荒神(こうじん) は竈(かまど)の神として火の安全を祈られる一方、荒ぶる火災の神でもありました。そのため、火事の多い京の町では禅寺の境内に荒神を祀り、「火伏せ」の祈願を盛んに行ったのです。
-
禅寺でも「牛頭天王(疫病神を鎮める神)」を祀る例は多く、疫病が流行すると、禅寺は 疫病神を鎮める法要 を主催しました。疫神を追い払うのではなく、むしろ供養して「怒りを静めてもらう」ことで、人々は安心を得ました。
異世界の存在への供養と祈り
さらに、禅寺の境内や周辺には 異界の存在 への畏れと敬意も息づいていました。
-
山や森には 天狗 が棲むとされ、修行僧を試す存在として畏れられました。寺では天狗を退けるよりも「彼らの力を鎮める祈祷」を行うことがありました。
-
川や池には 河童 が棲むと信じられ、水難から守ってもらうために供物が捧げられました。
-
田畑や井戸の傍らでは 蛇神 が祀られ、豊穣と水の循環を司る存在として大切にされました。
禅寺は村の祈りの場でもありましたので、こうした異次元の存在を「祀る」「供養する」ことで恐れを和らげ、共同体の安心を保つ役割を果たしていました。
つまり、禅寺の祈りの対象は「仏」や「菩薩」にとどまらず、土地の神・荒ぶる神・異界の精霊 にまで広がっていたのです。
これこそが、かつての禅寺の姿──「禅」と「民間信仰」が響き合い、ひとつの境内の中で重なり合って生きていた姿でした。
禅寺は「禅の修行場」であると同時に、生活の不安を和らげ、見えない存在の力を調和させる祈りの場でもありました。ここに「禅=純粋」という近代的なイメージとの大きな違いがあります。
今のように「禅=座禅と作務だけ」というのは明治以降に整理されて作られたイメージで、実際の禅寺は「祈りと信仰の総合センター」でもあったのです。
天皇家と禅寺──多宗教を支える王権
ここで重要なのは、こうした禅寺の多信仰性を、天皇家が積極的に支えたという事実です。
-
南禅寺:亀山上皇の離宮を禅寺に改めて創建。以来、皇室ゆかりの祈りの場に。
-
大徳寺:足利義満・後小松天皇と深く結びつき、皇室の法要や茶道文化と交差。境内には八幡神や稲荷の鎮守社も祀られた。
-
妙心寺:後花園天皇の強い庇護を受け、春日大明神や天満宮・稲荷を祀る鎮守社を併設。
つまり、天皇や皇族は単に禅を支えたのではなく、禅寺を通して神道・陰陽道・民間信仰を含む複合信仰全体を積極的に認めて守っていたのです。
天皇家は「神道だけ」を信じたのではなく、仏教や陰陽道、山岳信仰までも実践した「多信仰のシンボル」でした。
禅寺の複合信仰と天皇家の多信仰性
ですから、歴史をふり返ると、禅寺は決して「禅=座禅」だけを行う場ではありませんでした。
-
本堂には薬師如来や観音菩薩が祀られ、病気平癒や現世利益の祈祷が行われた
-
境内には鎮守社があり、土地の神々や精霊をまつって災厄を鎮めた
-
星祭りや方位除けなど、陰陽道的な要素も組み込まれた
-
山岳信仰とも響き合い、修験者たちとも交流した
つまり「禅寺」といっても、その実態は 仏教・神道・陰陽道・民間信仰が重なり合った複合信仰の場 だったのです。
そして、それを守り育てたのが天皇や天皇家でした。
彼らは禅そのものだけでなく、禅寺をとおしてそこで展開された多層的な信仰世界をまるごと保護していたのです。
すなわち、天皇家の多信仰性は、禅を支えることでさらに深まった といえるでしょう。
従って、天皇や天皇家は純粋に神道だけを信仰したのでは全くありません。
天皇家そのものが多重信仰の象徴であるのです。
もし、天皇家が追求していたものを、「神道の原型」と呼ぶならば、
神道は多重的な宗教であり、純粋な神道などは、明治以前までの歴史の大部分で存在しませんでした。
「禅らしくない禅」が、本来の禅の形
ここで忘れてはならないのは、「今の禅らしい禅」は実は明治以降に形づくられたものだという点です。
近代国家の制度化の中で、政府は「禅=修行宗派」として一方的に整理し、祈祷や民間信仰的な部分を切り落としていきました。
それ以前の禅は、今まで見てきたように、もっと柔軟で、多様な信仰を包み込んだ存在でした。
歴史の大部分では、禅は多様な複合の宗教であり、今の様な純粋な禅ではありませんでした。
禅寺を篤く保護した天皇家は、結果的に「禅らしくない禅」、すなわち多宗教の共存そのものを積極的に認めて守っていたのです。
結論──禅寺が語る日本の多様性
現代では「禅=坐禅」「神道=天皇中心」といった単純なイメージが広まっています。けれど、歴史の中の禅寺を見れば、それがいかに近代的に作られた姿であるかがわかります。
禅寺は、坐禅だけでなく、土地神や異界の存在を祀り、祈祷や法要を行う「混ざり合いの信仰の場」でした。そして天皇家もその営みを支え、自らも仏教を篤く信仰したのです。
純粋な宗教など存在せず、最初から「共生と多様性」こそが日本文化の歴史の本質でした。
禅寺の静けさの奥には、その豊かな混ざり合いの歴史が今も息づいています。
明治以降、禅は“純粋な修行宗派”として整理され、祈祷や民間信仰の役割は大きく縮小しました。けれど、完全に消えたわけではありません。
南禅寺や大徳寺、妙心寺の境内には今も鎮守社が残り、地元の人びとが手を合わせています。
つまり、表向きは“禅=坐禅”へと整理されつつも、境内の祠や小さな社に息づく祈りは、かつての多様性の名残を今に伝えているのです。