聖に至らなくても、官能は悪ではない
聖に至らなくても、官能は悪ではない
官能は、必ずしも聖に至らなくてもいい。
全てはSacred. 全ては神聖さの、派生でしかない。
だけど、いつも神にふれなくてもいい。
魂の目覚めに直結しなくても、たのしいだけでも、
ただ、触れ合うこと、感じ合うこと、それだけで十分に尊い。
人はときに、官能の力を、真面目に宗教的、哲学的に考えて。。。
「神聖な体験か、そうでないか」で測ろうとする。
魂を高め合う交わりでなければ。
愛に満ちたふれあいでなければ。
癒しや気づきがなければ、
「浅い」「くだらない」と、見なしてしまうこともある。
でも、それはほんとうだろうか?
誰かのぬくもりを感じる夜。
ただ、笑ってふれあえる時間。
言葉はいらないけれど、体と体が「いま」「快楽」を共有する時間。
それがどんなに短くても、
どんなに軽やかでも、
その体験が、生きている力になることがある。
官能が、かならずしも崇高でなくていい。
聖でなくても、価値はある。
神聖さ、聖性だけを求めすぎると、
日常のふれあいを、意味のないものにしてしまう。
でも実際は、
遊びであっても、快楽であっても、
そこに命の光が、ちゃんと瞬いている。
私たちはもっと、
「軽やかなよろこび」にも、やさしくなっていい。
たとえ、神の扉まで届かなくても。
たとえ、魂の目覚めに至らなくても。
それでも、
「人と人がふれあい、笑い、交わること」には、
自由とよろこびがある。
だから、官能は悪じゃない。
聖に至らないからといって、
価値がないわけじゃない。
それはそれで、美しくて、たのしく、うれしく、愛しいものなのだ。
よろこんで、何がわるい?
癒しとは、「普段」から解放されること。
官能快楽は、その扉を開く。
そういう交わりを、
もっと正直に、もっと自由に、
祝福していきたいと思う。