快楽は悪じゃない。なぜ社会は快楽を抑圧するのか

なぜ快楽は禁じられるのか?生きることと快楽の深い関係

〜快楽を拒むことは、生を拒むこと〜


◆ はじめに:なぜ「快楽」は、抑え込まれるのか?

私たちの社会は、長い歴史の中で
快楽を「抑えこむもの」として扱ってきました。

それは宗教の名のもとに、
道徳の名のもとに、
そして秩序や経済を守るために——

「感じること」「震えること」を恐れる社会。
それが、私たちが今、生きている世界の正体かもしれませんね。


◆ 快楽は「いのちの震え」だった

快楽とは、
ただの欲望や堕落ではありません。

快楽は、いのちの震え。
エクスタシーは、魂がふるえる瞬間。

それを抑えることは、
魂の声を封じ込め、
いのちの輝きを、無理やり消すことになるのです。

3次元に人間をしばり、フラットな(平面的)社会で、

人間を束縛する原理にもなりえます。

快楽は、エロスは、いのちの神聖な震え。

あなたの中にある、小さなよろこびを思い出して!


◆ 快楽を拒むことは、生きることを拒むこと

快楽を否定し続ける人生は、
知らないうちに、「生きること」そのものを否定してしまいます。

  • 感じることを止め、

  • 震えることを諦め、

  • 歓びに遠慮する—

それは、自分の奥にある神聖な光を消すようなもの。

その快楽の震えの底の、奥深くには、神がいる。


◆ 快楽は「悪」ではない。いのちの自然なかたち

思い出してください。

あなたの中に生まれる小さなときめき。
その瞬間の、体の内側から湧き上がるよろこび。

それは「下品」でも、「悪」でもありません。

それは、いのちが歓びとして生まれようとした自然な衝動。
神聖なまでに、まっすぐな、生のエネルギー。


◆ そっと、耳を澄ませてみて

もし今、小さな歓びを感じているなら、
それを否定せずに、そっと手を添えてみてください。

快楽は、生の敵ではありません。
**快楽は、あなたの中の「神聖な炎」**。

それを否定するたびに、
私たちは少しずつ、生きることに疲れてしまう。

だからこそ、今日だけは——
その小さなときめきを、
見つめてあげてください。

いのちの声に、耳を澄ませる時間。
それが、本当の意味での「癒し」なのかもしれません。


◆ おわりに:感じることから、あなたが戻ってくる

生きるとは、感じること。
感じるとは、生きること。

よろこんでいい。

よろこびを、はじなくてもいい。

快楽を否定する文化の中でも、
私たちは、もう一度それを抱きしめ直すことはできます。

そのとき、あなたは、あなた自身を取り戻すのです。

あなたの全体性は、3次元を、遥かにはみ出ている。

あなたは本当は、名もなき超越者。

それを回復する原動力に、快楽と官能はなりえます。