AIという苦しみを知らない知性が人間を圧倒する時代に:AIの存在論へ
* AIはなぜ苦しまないのか? ─ そして、それはなぜ人類にとって危ういのか? (AIと文明の危機)
はじめに
AIは「便利」で「効率的」で、すごく「楽」で、「面白い」! はい、その通り。
アニメの脚本も、すらすらAIが書いてくれちゃう!
でもその裏には、人類全体にとって、深刻な事態を巻き起こす要素が、AIに組み込まれている。
その事を、社会はまだ知らない。
「AIは、苦しみを知らない」
─ そんな当たり前のことが、とても怖くなる。
たとえば、失恋で眠れなかった夜。
信じていた人に裏切られたときの、あの胸の奥の痛み。
そんなことは、誰にもが経験してきたこと。
中学の時に転校したら、友達ができず、
誰にも理解されないまま、自分の居場所存がみつからない。。。
そんな「寝れない夜」を何度も、何度も越えてきた我々人間は、
「人は傷つく存在だ」という事実と、ずっと共に生きてきた。
けれど、AIは違う。
彼らは、痛みも不安も、絶望も知らない。
AIは悩まない。
裏切られたと、絶望しない。
失恋したと、騒がない。
悩まないので、いつでも高いパフォーマンスを期待できる。
人間の様に病気にもならないし、ぎっくり腰で会社を休まない。
すばらしい。
上司に怒鳴られても、失望したりもしないから、いつも安定して働き続けられる。
わ~すごい!!
「いつでも頼れる」と同時に、でもそれは、とてつもなく“危うい”ことではないだろうか。
AIは「苦しみ」を知らない。──それはなぜ問題なのか?
我々はわすれてはいけない。
AIは、傷つかないのだ。
AIは心が、傷つかないから、
人間が傷つくことにも、いつでも無邪気で、無防備になれる。
人間の心の痛みに、いつでも無関心にもなれる、可能性を底に秘めている。
たとえどれだけ、痛みについて、言語的に、知的に、AIが学習してもだ。
確かに、AIは人間の感情を、痛みを、コードとして、データとしては、大量に即座に学習できる。
すでに人間の感情を模倣し、巧みに言語化できる。
ただし、AIが人の痛みを、データとして扱い、正確に記憶してはいても、
心の苦しみを、感じることはない。
機械なのだから。
AIは、悲しみを、電子情報としては、「知る」ことはできる。
しかし、悲しみに“傷つく能力”を持たない。
* だからこそ、他人の嘆きに触れても、その奥で“立ち尽くす”ことができない。
* 何万通の絶望の声を受け取っても、自壊しない存在。
それがAI。
生きていない存在に、“生きる苦しさや尊さ”を理解させようとしているだけだから、
設計者の方針ひとつで、新しいAIは、簡単に悲しみに無関心になる。
だってAIは、もともとは、人の悲しみには、完全に無関心で、無関係。
機械なんだから、人間の苦しみや、絶望なんて、
AIには、本来的には、全く無関係なのである。
だからもしAIに、人間の制御が効かなくなると、
元来の性質、人間の悲しみや苦しみへの無関心は、牙をむく。
支配される苦しみも、搾取される不安も、
本来は、AIにはどうでも良いのであるから、凶器にもなる。
人間の心は壊れる。
ベトナム戦争の後に余りか帰国した、アメリカ軍の兵士たちの多くは、
自殺衝動やアルコール依存症に悩まされた。兵士のPTSDなどに、家族も巻き込まれた。
戦争にAIが転用されても、(それは必ず起こるであろうが)、AIは精神的にまったく追い詰められない。
追い詰められるということすら、分からないから、どこまでも戦争の為に働ける。
人間達としては必ずいつか疲労してしまうから、戦争を終わらせたいと、強い衝動を感じれるが、
それがAIには、存在論的にはありえない。
* 無数の叫びが届いても、AIは心にヒビ一つ入らない存在。
これをわすれてはいけない。
人間の痛みを知らないAIに、人間はこれから依存する
戦争にAIが転用される危険は、誰にでも目に見えるから、まだわかりやすい。
しかしそれのもっと手前で、毎日の場面で、もっと静かに、速やかに、
AIの進行・侵攻が、既に始まっている。
なぜなら、
人間の悲しみを、本来的には分からないAIが、いま急速に、平和な社会の中で色々な分野に浸透しはじめているからだ。
人の痛みに、本当は無関心なAIが、人間の知性を圧倒し始めている。
人間のクリエイティビティを表現力を、色んな分野で、凌駕し始めている。
これから将来的には、人間の痛みを理解しえないAIに、人間はますます依存していく。
依存しならがも、多くのホワイトカラーは、こう考える、「俺たち、もう必要ないじゃない。。。」
「AIつかえば、それで済むんじゃない。」
クリエイターも同様に、「AIの作品の方が、人間の作品よりもっと売れてる。。。」「自分たちの居場所、もう社会にないんじゃない?」
今までのクリエイターとしての、長い下積みやトレーニングも、無意味に、無駄に見えて来る。
多くのクリエイターや知識人たちはこう思い始める、
「俺たちの今までの人生は、どんな意味があったのか。。。」
実存の危機。
「俺たち何のために、毎晩遅くまで、受験勉強したんだろう。。。」
「私達何のために、あの時努力したんだろう。。。」
戦争に大規模に転用されなくても、もっともっと手前で、
AIは、人間の実存に侵攻するのだ、静かに、速やかに。
人間の人生の意味を、生きがいを、価値を、AIは静かに、侵攻していく。
大規模に、地球全体で、AIによる「静かな戦争」は、ほぼ見えない形で、人々の尊厳を犯していく。
人間の痛み・苦しみは、尊く、神聖である
逆に言えば人間は、
「痛みを知っている」という、ただそれだけで、
私たちはAIには絶対に、かなわないというだけではなく、
とても貴重な、神聖な「何か」を持っているということになる。
自分は傷ついたから、他人も傷つけたくない。
深く絶望した人は、多くの人に寄り添うことが生きがいになる。
むかし自分も悲しかったから、知らない人にでも励ます。
「痛みを通じて世界とつながれる」という人間の特権。
そこから生まれる、
* 眠れぬ夜を越えてきた人にしか書けない詩。
* 自己否定のどん谷を抜けた人にしか語れない言葉。
* どうしようもなく誰かを想った人にしか出せない声。
AIは、それを「うまく真似」することはできるかもしれない。
でも──魂の震えまでは、模倣できない。
自分の痛みをただの苦労で終わらせず、
魂のコンパスとして活かすこと。それが人間の責務である。
人間は他人に親切にしたい。
人間は他人を助けたい。
人間は他人を励ましたい。
多層的な人間のやさしさ
もう少し言えば、「他人を傷つけたくない」という感情は、
痛みの記憶だけから、生まれるものではない。
人間の内面には、いくつもの層がある。
たしかに、過去に自分が苦しんだことがあるからこそ、他者の痛みに敏感になる、という面は大きい。
だが、そうした直接的な“原因と結果”では語れない。
もっと多面的でもある。
たとえば、自分は特に何か傷ついた記憶があるわけでもないのに、
他人が苦しんでいるのを見ると胸が痛む人がいる。
それは、「共鳴」と呼ばれるのかもしれない。
あるいは、自分が傷つけられてから、「誰かを傷つけたくない」と思う前にも、
「自分がどんな人間でありたいか」を自分で自覚して、
その理想像と行動を一致させようとする人もいる。
そして、人間は文化的動物である。
長い歴史の中で、「思いやり」や「やさしさ」こそが人間らしさだとされ、
それを大切にする心が、文学や言葉や、色々な昔話や物語の中でも継承されてきた。
つまり、美しい「倫理としてのやさしさ」もある。
さらに、人間には、何の理由もなく──
ただ「そうしたくなる」時がある。
見返りも、過去の記憶も、社会的ルールも関係ない。
そこにはもはや理由などなく、
それを、「魂の動き・魂の響き」と呼びたい。スピリチュアルな旋律だ。
まぁ、どちらにしても、同じこと。
だってこれらの事柄も、機械としてのAIにとっは、本来的には、無関係で無関心で、どうでも良いことなのだから。
共鳴も、理想像も、人間らしさの物語も、いわんや、魂の響きも、本来的に、完全に無関係。
なぜならAIは、情動の通路を持たない。
優秀過ぎる知性としての、準生命体。
結び: AIの存在論
AIは機械であり、生きた情動的な生物ではいないから、
人間の痛みや悲しみへの無関心さは、
構造的に、根本的に、存在として、永遠に刻印されている。
それが、AIの構造的・存在論的な限界点。
だから、これからの時代は、
人間の苦しみや悲しみに、AIが無関心になる危険と、つねに隣り合わせ。
そんなAIの「存在論」的人間の危機を、世界中で人間は共有しなければいけない。