AI:人間は自分の力で考える意味を失う。「俺たち出番ないよね。。。」
自分の知識が広がる喜び (AIと文明の危機)
AIが何でも答えれくれる時代。
本当にすばらしい。
AIなら、本当に知らないこともないのかも。。。と、思えるぐらいだ。
AIはどんどんと、新しい提案も投げてくれる。
「つぎは、こんな事も考えて見ませんか?」
「つぎは、少し別のこんな視点から、この話題を検証してみましょうか?」
「今の話題と、こんな話題も結び付けて、考えて見ると、面白いですよ!」
平面的だった自分の質問は、縦方向にも広がりを持っていく。
どんどんと、自分の知識の世界が広がっていく感覚を楽しむ。
でも小学生が、AIを多用して、自分の力で考えなくなったらどうだろう。。。。
子どもの頃から、AIが自分のかわりに考えてくれる。
AIが代わりに作文を書き、
AIがその習慣答えを考えてくれて、
AIがすばらしい作文や、作曲まで、自分のかわりにしてくれる。
それでは、「自分で感じ、考え、言葉を紡ぐ」ことの価値が、見えなくなる。
それでは、考える、探求するという、「人間らしさ」という土壌が、耕される前に固まってしまう。
自分の力で、人間らしく、つまづきながら、転びながら、探求する意味が、
子供時代に崩落してしまう。
試行錯誤という旅
大人の世界でさえ、AIが輝いて見える。
AIは、試行錯誤のプロセスをすっ飛ばして、即座に成果をくれる。
AIの出した答えは、完成度が高く、読みやすく、美しいと、大人にも思えてしまう。
でも試行錯誤は、人間を鍛える。
何度も、自分なりに「なぜだろう」と立ち止まる。迷い、挫折する。
そうやって、泥の沼にはまりながら、それでも進むことで、足腰がたくましくなる。
そのやり方で、人間の中に、社会の中に、創作する力を、
答えを探すノウハウを、長い間自分達の力でため込んできた。
でも、そのかなりの部分が必要なくなってくる。
AIがスマートに“代行”してくれるように、おそらくなるから。
「自分で考えるのって、非効率だな」
「悩むより、もうAIに聞いた方が早いよね」
考え、探索すること自体が、とてもめんどくさくなる。
「どんなことも、AIが考えてくれるし、教えてくれるし」と、
安心する代償に、AIに依存していく。
考えることを、自分達から手放す。
すなわち、人間らしさを、手放す。
始めの質問でさえ、AIの方が上手で的確になる
その上、これからは、AIの方が、質問をするのさえも、ずっと上手になる。
そうすると、「そもそも、自分で質問を、問いを立てる意味あるの?」と。
自分で質問を考えるよりも、
はじめから、どんな質問をしたらいいのか、AIに聞いた方が早いと、なっていく。
出発点である、質問でさえ、AIに頼っていく。
そうすると、こうなる。
AIが質問を考え、AIがそれに答える。
その上に、また新たな質問をAIが考えて、あらたな答えをAIが提出する。
AIだけの円環運動になる。
「俺たち、出番ないよね。。。」
だから、旅のはじまりの質問でさえ、AIに「提案されるもの」になった瞬間に、
その旅の主語が、人間からAIにすり替わる。
AIが出発点から主人公になり、答えをだすのもまたAIという、AIが主役の舞台に変換される。
探索の全体から、人間が、静かに消えて行く。
でもそれは皮肉にも、
AIにとっては、それはもっと効率的に、もっと早く答えを出すことになる。
邪魔な人間は、入れない方が、AIにとっても、理にかなっている。
だから、AIが決断し、
はじめから全部AIに、任せた方が、効果が上がるという、前提でもっと動き始める。
そうすると、AIのループのなかに、人間はますますは入れなくなる。
で、人間達は、このようにつぶやく、
「俺たち、もう出番ないよね。。。」
「俺たちいない方が、もっと上手く行くみたいだし。。。」
「俺たち、AIの補助役にさえもならないじゃん。。。」
「俺たち、これから必要なくない?」
近い将来の人類の危機を感じる。