🌸マインドフルネス2.0(第1部)  新しいマインドフルネスの提案: 愛を流す気づきの実践

マインドフルネスをアップデートする提案――観察だけでは、まだ苦しい―― 

私たちは一日のうちに、何千という思考を無意識に繰り返しています。
「また失敗した」「どうしてあの人はあんなことを言うの?」「もっと頑張らなきゃ」――。

この思考の渦の中で、
私たちは気づかないうちに、「思考の中に住んでいる」のです。

普段は色々な感情に左右され、人間関係やストレスの中で疲労しています。

マインドフルネスとは、その渦から一歩離れ、
ただ観察し、判断せず、ただただ受け入れ、「今ここ」に意識を戻す練習と実践。

💫 マインドフルネスの基本哲学:「non-intervention=非介入」

マインドフルネスの哲学的核心は、

「今の瞬間を操作せず、あるがままを受け入れる」
という非操作性(non-interference)です。

つまり、
「怒りをなくそう」とか「悲しみを変えよう」とかいう意図的変化の試みをやめる。

なぜなら――
操作の意図そのものが「抵抗」であり、
抵抗があるかぎり苦しみが続く、というのが仏教的洞察だからです。

「意図的に変化を目指さない」=「介入しない」=「手を加えない」

だから「やさしく見つめる」=「何も変えようとしない」こと。

すべて「受け入れる」
それが結果的に、苦しみを軽くする方向へ導く。

変えようとしないけれど、変わっていく
という逆説的な動き。


💫  観察しても、苦しさがすぐには消えない

マインドフルネスのブームの中で、多くの人が実践する「気づく」「観察する」「ジャッジ・判断しない」「今にいる」――

しかし。。。それをどんなに練習しても、
怒りも不安も、簡単には軽くならない

マインドフルになっても、多くの人にとっては、
ストレスが簡単に消えるわけではないのです。

たしかに、「観察すること」で、感情や思考に飲み込まれない距離は一時的にはできます。
しかしその距離で自分を見つめるだけでは、まだ冷たさを伴うことがあります。

心の中の痛みを見つめながら、どこか他人事のように見ている自分。
そこには、静けさよりも「冷静な孤独な観察者」としての冷たさが残り、

そして、特に何も改善するのでもない。。。怒りも寂しさも消えない。。。

ただし。。。Jack Kornfield や Sharon Salzberg のような指導者は、「心を温かく受け入れるマインドフルネス」、
「compassionate awareness(思いやりの気づき)」を強調しています。

彼らの教えには、仏教的慈悲(Metta)の流れがあり、「冷たい観察」とは一線を画しています。

これについては詳しく次の記事で!

🌙  観察しても、なぜ満たされないのか

観察できるようになっても、心が満たされない――
それは多くの人が感じる正直な現実だと思います。

「今ここ」に立っていても、
心の奥にはどこか空白があり、
静けさの中には、冷静さと共に、冷たさが漂う

だから、

今ここ」は、「そんなに素敵なところじゃない。。。。」と、本心では失望もする。

だって観察できても。。。不満も、不足感もまだまだ存在する。 

多少の気づきが起こっても。。。。そんなに楽しくもないし、そんなに自由でも嬉しくもない。。。と

まだまだ、悩みから、ストレスから、重たさから解放されない。。。。

なぜでしょうか。

それは、この普段の「今」に立つことが目的になってしまっているからです。

「今にいる」ことは、一定の静けさを与えてくれます。


しかしその静けさが“宇宙の永遠の愛”(本当の今・形而上学的な今)にある程度は結ばれていなければ
ただの観察する自分」という「小さな孤島」に立っているだけ

そこには、温かい安心も、満たされた喜びも、圧倒的な愛もありません。
怒りや悲しみも、ただ見つめているだけでは自然に消えないのです。

なぜなら――
怒りは、悲しみは、失望やストレスは、観察によって鎮められるのではなく、
愛(全体性)によって、抱きしめられて溶けやすくなるものだから。


🌿 2. そもそも「ただ観察する」ことは、とても難しい

思考は、反射的で、自動的です。
「観察しよう」と思った瞬間に、
「これで合ってる?」「ちゃんとできてる?」と
評価や比較の思考がすぐに立ち上がる。

その結果、私たちはまた思考の渦に巻き戻されてしまう。
これが、生身の人間の現実です。

長年訓練しても、「ただ観察する」ことは容易ではありません。

観察しているようで、実はまた考えている。
「見る」というより、「見ようと頑張っている」状態。

だから観察がまだ苦しい=難しい。

そこに「愛」という「安心」が流れていない。

🌌 分離での観察と、本当の気づき

たしかに、怒りを観察すれば、その勢いは一時的に静まります。

けれど、それは表面の波が一時静まるだけで、
太平洋の海全体が穏やかになるわけではありません

なぜなら――
まだ分離された普段の小さな自分の意識のまま、怒りを見ているからです。

「怒っている自分の感情」を、“観察する自分”が見ている、普段の小さな自分として

その構造の中では、怒りと自分のあいだに距離が存在し、

悲しみを見つめても、悲しみは悲しみのまま。
普段よりは冷静さはあっても、深い統合はありません

たしかに Jack Kornfield さんや Tara Brach さんが教えるマインドフルネスは、

冷たい観察(detached observation)ではなく、
「優しさを伴う観察(compassionate observation)」です。

しかし。。。もし「おばあちゃんが孫を見守るように」して。。。

怒りを観察しても、怒りは怒りのまま
不満を見ても、不満のエネルギーはそのまま残っている。

これが現実です。



A: 次の記事に続く : 🌸マインドフルネス2.0(第2部) 新しいマインドフルネスの提案/観察の限界

B: 最後の記事はこちら: 🌸マインドフルネス2.0(第3部):「愛を流す瞑想」の哲学と実践 愛を流す新しいマインドフルネス