レベル0からの数学論(第9回):自分という存在 ― 3次元OSの全体像(世界と自分の分離している)

数学が成立する条件を追っていくと、最後に必ず残るものがあります。
それは、数を数え、数字比べ、計算している、「自分」という存在があるように感じられること。
そして、その自分の「外側」に、独立した「世界」があるように感じられること。
この第9回では、この「自分と世界の分離している感じ」が、数学と科学を可能にする土台(3次元的なOS)だというというお話です。


このレベル0からの数学論のシリーズは、数学の成立条件(レベル0)から、考え直していくシリーズです。

この記事は「レベル0からの数学論」シリーズの第9回です。

 

1 数学を理解する自分とは?

ここまでのシリーズでは、数学が成立するために必要な条件を、できるだけ手前のレベルから分解してきました。

数字を区別できること。
数字の順番が理解できる。
数字の比較ができること。
数字を足したり引いたりできること。 などなど。。。。。

簡単な計算をするためには、これらの色々な能力が必ず必要になります。
しかし、これすべては、

数字を理解し、数字を計算している「自分」がいるように感じられる
という事がすでに前提になっています。

いう存在これまでの議論では、この前提はあまりにも当たり前すぎて、あえて言葉にしてきませんでした。
第9回では、この暗黙の前提を取り上げます。


2 3次元OSの全体像とは?

私たちが生きている世界は、次のような形で普段は経験されています。

  •  「自分」という存在があるように感じられ

  •  「自分」と別に「世界」があると感じられる

  •   世界は自分の「外」にあり、安定して存在しているように見える

  •   同じものは、同じものとして保たれているように感じられる

  •   変化や因果が理解できる

  •   比較・操作・測定・計算ができる

このような世界の経験のされ方があるので、数学や算数は成立するのです。

これは、人間にとってごく普通の経験モードであり、
言ってみれば、人間としての「3次元的OS」と呼べます。

数学の計算が成り立つとき、そこには常に、

外にある「世界」を数学の計算の対象として扱い、
それを扱っている「自分」がいるように感じられ、
そうした人間としての心の様々な構造が前提になっています。


3 数学と科学は、このOSの上に作られた?

ここで強調しておきたいのは、
この議論は数学や科学を否定するものではない、という点です。

むしろ逆です。

数学と科学は、

  • 人間が安定して比較できる部分を取り出し

  • その関係を固定し

  • 他者と共有し

  • 繰り返し再利用できる形にまで洗練させた

非常に完成度の高い体系です。

だからこそ、
数学や科学は経済の予測などにも使え、
様々な技術に応用でき、
社会の大切な基盤として機能してきました。

ここで議論しているのは、

どのような人間としてのOSの中で、この強力な体系が成立しているか

という点です。

4 このOSは唯一ではない?

ここで、この記事が扱っている射程を、はっきり整理しておきます。
私たちが世界を経験する仕方は、少なくとも次の三つの層に分けて考えることができます。


【第一層】通常の3次元OS ― 数学と科学が最もよく機能する領域

私たちが日常的に生きているのは、この第一層の経験領域です。

この層では、

  •  「自分」という存在があるように感じられ

  •  その自分とは別に「世界」が外にあるように感じられ

  •  世界は安定して存在し、同じものは同じものとして保たれ

  •  変化や因果の流れが理解でき

  •  比較・測定・操作・計算が自然に行えます

このような世界の経験のされ方の内部では、
数学や科学は最も安定して機能してきました。

数を数え、量を比べ、関係を固定し、
それを他者と共有し、繰り返し再利用する――
これらが当たり前にできるのは、
この第一層の経験形式が存在する前提になっているからです。

言い換えれば、
私たちが普段使っている数学や科学は、
この第一層の世界経験の内部で完成された体系
なのです。

数学や科学は、この第一層――
人間の3次元OSの内部で、
最大限に安定し、洗練され、完成されてきました。


【第二層】中間的な経験 ― 3次元OSの揺らぎと変調

しかし、私たちの経験は、常にこの第一層だけに限られているわけではありません。

たとえば、共感覚と呼ばれる現象があります。
これは、ある感覚が別の感覚を自動的に伴ってしまう経験です。
代表例としては、

  • 音を聞くと、同時に「色」や「形」が伴っている

  • 文字や数字に、特定の色が“いつも”ついている

といった形で語られます

同じく、次のような体験もあります。

  • 数や数学的構造が、計算の手順の結果としてではなく、空間的な配置や形として見える/感じられる

  • 計算していないのに、答えや構造が「操作」ではなく、ひらめきに近い仕方で自動的に浮かんでしまう

これらは、異次元の体験ではありませんが、
しかし、普段の3次元OSの枠組みには、きれいには収まらない経験です。

ここでは、

  •  感覚の数が増えるというより

  •  感覚どうしの結びつき方や、中心となる感覚の比重が変わる

という体験です。

これは「特殊能力」の話ではなく、“同じ3次元に生きているはずの人間”ですら、感覚の結びつき方や比重の違いによって、3次元OSが一様ではないと示唆される、という点です。

私たちは普段、あまり意識しませんが、

どこまでを「同じ3次元」と呼べるのかは、
今後さらに慎重に検討されるべき問題です。


人間以外の生物が示していること

同じ「世界」に生きていても、
感覚の構成や重みづけが違えば、世界はまったく異なる姿で経験されます。

たとえば、


  •  嗅覚が世界理解の中心にあり、
     空間は「形」よりも「匂いの分布」として把握されているように経験されます。

  • コウモリ
     視覚ではなく、聴覚(反響定位)が空間把握の中心です。
     世界は「音の返り方」として立体的に構成されます。


  •  高精度の視覚に加え、
     磁気感覚によって方向や位置が把握されていると考えられています。

  • 人間
     視覚を基盤にしつつ、
     言語・概念・数・比較と強く結びついた世界経験が中心になります。

ここで重要なのは、
どの生物の世界が「正しい」か、ではありません。

感覚の構成が違えば、
同じ世界であっても、
まったく違う世界として経験される

という点です。

さらに言えば、そもそも「同じ世界を経験している」と言えるのかどうか自体が問題になります。
「同じ3次元に生きている」という前提すら、自明ではないのです。

そして重要なのは、「同じ世界を別の見方で経験している」と言うだけでは足りない、という点です。
それ以前に、「同じ物理世界に生きている」という前提そのものが、どこまで保証されているのかは分かりません。


私たちが「物理世界」と呼ぶもの自体が、

そもそも第一層(3次元OS)の経験形式の中で成立している“世界像”にすぎないのかもしれないからです。



【第三層】理論的に排除できない領域 ― 異なる経験形式の可能性

さらにその外側には、
現在の人間の普段の感覚では経験できないものの、
理論的には排除できない経験の層の可能性が存在します。

そこでは、

  • 五感を前提としない感覚で、五感を超えた世界・次元

  • 空間・時間・因果・比較といった枠組みも、
    私たちとはまったく異なる形で成り立っている可能性があります。

この記事では、
この第三層の存在を断言することはしません。

しかし同時に、
第一層の経験形式だけが、世界の唯一のあり方であると断言する理由もありません。

重要なのは、次の一点です。

第一層(通常の3次元OS)と
第二層(その揺らぎや変調)を認めた時点で、

それらとは異なる経験形式の層の可能性を、最初から否定することはできない
という、論理的な話しです。

もし、世界の経験のされ方が
生物や感覚構成によってこれほど変わりうるのだとすれば、

人間の3次元OSそのものが成立できない形での
世界経験が存在する可能性を、
原理的には閉じてしまう理由はありません。

そしてこの第三層は、
第一層の数学や科学が「どこで」「どの条件のもとで」これほど強く機能しているのかを正確に理解しようとするほど、
どうしても残ってしまう“数学の適用範囲の外側(射程未確定の領域)”として現れます。


三層を通して見えてくること

この三層構造から分かるのは、

三層を通して見えてくること
この三層構造から分かるのは、数学や科学が「無効」なのではなく、むしろ、
第一層という経験形式の内部では、驚くほど安定して共有可能な体系として完成されているという点です。

そして同時に、私たちが普段「数字や数学」や「物理」と呼んでいるもの自体が、第一層の経験形式と切り離せない。
また普段経験している世界の体験が、唯一であると断言することもできない

という点です。

まとめ:数学が通用する場所を、正確に知るために

数学と科学は、
人間の3次元OSという第一層の内部で、
驚くほど強力に機能する体系です。

私たちが数学や科学に毎日依存しているからこそ、

  • どの層で数学が成立しているのか

  • どの層では、その前提が揺らぐのか

を見極めることが重要になります。

そして第一層の外側では、
同じ前提(同じ空間・時間・因果・比較)を置いたままでは、数学や科学はそのままの形では適用できない可能性が高い。

このシリーズが行っているのは、
数学や科学を否定することではありません。
むしろ、

数学がこれほどまでに強力である範囲を、明確にすること

なのです。

世界が「外にあり」、
安定して存在し、
測定でき、
比較でき、
操作できる――

この見え方そのものが、
すでに人間特有の経験形式(OS)である可能性があります。

私たちは世界を、普段の人間としての3次元OSのもとで経験していて、
数学や科学は、この世界経験の形式の内部でこそ、
驚くほどの力と安定性を発揮してきました。

それは、このOSが
「比較」「固定」「共有」「再利用」
に極めて適した構造を持っているからです。

つまり、数学と科学の偉大さは、その外側ではなく、
この3次元OSという経験の枠組みの中で、最大限に洗練されてきた点にあります。

そして最後に残る問いは、ここです。

人間は同じ“3次元の世界”を共有している、と私たちは無意識に思っている。
 でも、共感覚やサヴァン的な知覚(数が形で見える等)を入れると、すでに揺らぐ。

通常時と変調時(夢、極度のストレス、瞑想、トランス、薬理的変化など)で、
 世界の枠組み(時間・空間・自己境界)が変わる可能性が十分にある。

他の生物のことも考えると、感覚の構成や優先度が違うので、そもそも「同じ世界を別の見方で」というのではなく、
そもそも“人間と同じ世界を生きている”と言えるのかが問題になる。

このシリーズが行うのは、まさにその点検でもあります。

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このレベル0からの数学論のシリーズは、数学の成立条件(レベル0)から、考え直していくシリーズです。

この記事は「レベル0からの数学論」シリーズの第9回です。