レベル0からの数学論(第11回):数学に依存する科学は普遍的か?科学は「人間OS」の内側でしか成立しない
この記事では、科学が強力に機能する条件を、レベル0から点検する。
科学は、私たちの普段の意識の形式に深く適合しているからこそ強力である。
しかし、根本的にそれとは別の形式の世界や領域に触れるには、私たちの側の意識の形式そのものを見直す必要がある。
はじめに:理性と科学が必要な時代だからこそ
世界中でポピュリズムが吹き荒れ、
感情的なSNSの投稿が選挙の投票にさえ影響を与える時代において、
理性や科学の力は、これまで以上に重要です。
一時的な感情や思い込みではなく、
検証可能な根拠にもとづいて世界を理解しようとする姿勢は、
民主的な社会を支えるために不可欠です。
しかし同時に、
数学や科学を無条件に信頼し、
世界のすべてについての答えだとみなすことも、
それ自体が一つの思考停止であり、
バランスを欠いています。
前回の記事では、
数学の普遍性や万能性とは「無条件なもの」ではなく、
人間の普段の意識の形式――すなわち、人間としての内部環境――の中で成立する、
明確に限定された普遍性であることを見てきました。
では、その数学を基盤として成立している科学は、
いったいどこまで世界を語ることができるのでしょうか。
そして、語れないものがあるとしたら、それはなぜでしょうか。
これまでの記事一覧
第1回: 数学とは何か?「数学が始まるための条件」
第2回: すべての数学は「区別」から始まる
第3回: “同一性”と“順番”がなければ数学は成立しない
第4回: 数学は「因果」と「持続」がそろって初めて働く
第5回: 数学と空間
第6回: 数学と時間:数学が時間に依存している理由
第7回: 足す・引く ― 計算の前に必要なOS
第8回: 比較する・比べる
第9回:「自分という存在 ― 3次元OSの全体像」
前回(第10回)では、
「数学は普遍的なのか?――人間の意識の形と数学」 をテーマに、
「数学の普遍性とは何か」を検討しました。
■ 1:科学哲学が前提にしてきた土台(レベル0)
なお本記事が扱うのは、クーン以降の科学哲学が主に論じてきた「科学の内部でのパラダイム転換」とは射程が違います。
科学哲学の中ではこれまでも、多様な検証や批判が積み重ねられてきました。
しかし従来の議論の多くは、科学が成立するための土台そのものは、すでに成立していることを前提にしています。
たとえば、少なくとも次の「研究が成立するための手続き条件」が成り立つ世界が想定されています。
・ 現象を証拠として取り出せる(記録として残せる)
・ その証拠を測定・数値化できる(測定値として扱える)
・ 他者が読める形に表現できる(図表・記号・文章など)
・ 他者が検証できる形で公開できる(追試・再解析が可能)
・ 共同体の中で評価・合意形成ができる(間主観的に批判・査読・再検証が機能する)
クーンなどが描いたのは、こうした手続き条件がすでに成立している世界の内部で、理論や研究枠組みがどう入れ替わるか、という問題でした。
それに対して本記事(本シリーズ)が問うのは、そのさらに手前──そもそもこの土台(レベル0)は何によって成立しているのか、という点です。
この記事では、この数学や科学の土台が安定して立ち上がっている状態を 人間の内部環境(=普段の人間の意識の形式/3次元OS) と呼びます。
ここで言う『内部環境』とは、世界の性質そのものではなく、人間として世界が経験できるための意識の構造のことです。
■ 2:数学が成立しない環境では、科学も成立しない
――数学と科学に共通する成立条件
前回の記事では、数学が成立するためには、
・ 数字と数字を明確に区別できること
・ 数が等間隔に並び続けること
・ 同じ操作が同じ結果を生むこと
といった、私たちが普段ほとんど意識しない多くの前提条件が、
人間の普段の内部環境として、すでに整っていなければならないことを見てきました。
もし、数字と数字が区別できなかったり、
「1」 と「 2」 が、状況によって同一になったり。入れ替わってしまうような環境や、
「1 増える」「2 増える」という操作の意味が場面ごとに変わってしまうような環境では、
基礎的な算数そのものが成立しません。
重要なのは、これは「計算が難しくなる」という話ではなく、
そもそも計算が 営みとして成立しない という点です。
そしてこのことは、数学だけにとどまりません。
科学的な計測、数値化、比較、モデル化、法則化――
これらはすべて、数学・算数の計算が 常に安定して働くこと を前提にしています。
したがって、数学の基礎的な計算が成立しない環境では、
構造的に科学という営みそのものが成立しません。
では数学以外に、科学が成立するためには、最低限必要な世界の構造とは何でしょうか。
■ 3:科学が成立するための「絶対必須条件」とは?
どの分野の科学であっても、
研究や実験が成立するためには、少なくとも次の構造的な条件が必要です。
科学が成立する世界には、私たちが普段「当たり前」として生きている世界の構造、
* 空間がある
* 時間がある
* 物理的な量がある
* 因果関係が安定している
* 観測者と対象を分離・区別できる
* 再現性が成立する(同じ条件なら同じ結果が得られる)
という構造が、あらかじめ成立している必要があります。
もしこれらの、
空間・時間・因果・分離といった枠組み自体が存在しなければ、
科学は「まだ未発達だから」ではなく、方法として根本から成立しません。
これら「普段の当たり前」は、
ある科学者の独自の理論や、ある研究者の研究結果とは無関係に、
科学という営みが成立するために先に必要となる前提条件です。
そして重要なのは、「普段のごく当たり前」を経験できるのは、
世界をそういう形に整えて経験してしまう枠組みが、
こちら人間の側に、普段の意識のデフォルトとして組み込まれているからだ、という点です。
したがって科学は、この人間の普段の意識の形式(内部環境)の内側でのみ成立します。
科学とは、人間が普段経験するような形で空間と時間が立ち上がり、因果や分離や再現性が保たれている環境の中ではじめて、
「世界を数量化し、比較し、法則として共有できる形に整える」ことができる方法だからです。
ここまでは、科学が成り立つための前提を見てきました。
次は、科学が扱うためには、物理現象を「データ」や「数式」など人間が読める形に直す必要がある、という話です。
■ 4:科学は「人間の普段の意識の形に翻訳できるもの」しか知識化できない
科学は、私たちの普段の感覚からは分からない様な領域までも、扱っているように見えます。
たとえば、
* 電磁波は目に見えない。。。
* 重力波は耳で聞こえない。。。
* 放射線は肌で感じない。。。
それなのに、確かに科学はそれらの現象を精密に観測できる。
この意味で科学は、日常の感覚では捉えられない現象も扱えるように見えます。
しかし重要なのは、科学として成立させるためには、最終的に「人間が読める形」に翻訳しなければならないという点です。
科学的知識は、結局のところ、
-
数値
-
グラフ
-
波形
-
統計
-
数式
-
モデル
といった形式で表現されます。
つまり、「人間が読める形」へ翻訳できたものだけが、科学的知識として成立するのです。
ここには、二段階があります。
* 第一段階: 現象を「データ」として取り出せること
電磁波や重力波や放射線は、そのままでは私たちの感覚に現れません。
しかし測定装置によって「信号」「数値」「記録」として取り出されることで、はじめて科学の対象になります。
* 第二段階: データを「知識の形式」へ整形できること
取り出されたデータは、そのままでは知識になりません。
数値・グラフ・波形・統計・数式・モデルといった形に整え直し、他の科学者が理解し、共有し、検証できる形式に落とし込まれて、はじめて科学的知識として確定します。
――この二条件を満たす範囲に限られます。
科学が扱うのは、すべての物理現象ではありません。
この「二段階の翻訳を通った物理現象」だけです。
結局、科学が「知識」として確定できるのは、
人間としての普段の内部環境(区別・量・比較・記号化・共有可能性…)に乗る形へ変換できたものに限られます。
そしてこの翻訳が常に必要である以上、科学がいくら高度になっても、
科学の枠組みの「外側」を、科学の方法で扱うことはできません。
■ 5:もし世界の本質が「別の形式」で成立していたら
仮に、世界の本当の姿が、私たちの普段の形式とはまったく違う仕方で成立していたら、どうでしょうか。
たとえば、それが次のような性質を持つ領域だとします。
-
非空間的(位置がない)
-
非時間的(変化の順序がない)
-
非因果的(原因と結果が固定できない)
-
非分離的(自分と対象が切り分けられない)
-
非再現的(同じ条件が再び作れない)
このような領域について、科学は「まだ十分に発展していないから扱えない」のではありません。
そもそも科学としての全ての研究の出発点そのものが、成立できないのです。
空間がなければ、測定さえできない。
時間がなければ、変化を計算できない。
因果がなければ、法則を立てられない。
分離できなければ、対象を定義できない。
再現性がなければ、科学にならない。
では、「非空間的」「非時間的」とは、具体的にはどういうことなのでしょうか。
それは、あるレベルでは 空間も時間も消えてしまう(ない) という形で現れ得ます。(西田哲学・絶対無の経験など)
しかし別の形として、空間や時間があるように見えながら、位置や順序が固定できない/定まらない という現れ方もあり得ます。
そのイメージとして、空間と時間の“バリエーション”を挙げてみます。
空間のバリエーション(例)
-
位置が定まらない(どこにあるか場所が固定できない)
-
複数の位置に同時にある(一つに限定されない)
-
距離が一定でない/等間隔が崩れる(測るたびに変わる)
-
場所の同一性が崩れる(同じ場所が“同じ”でいられない)
時間のバリエーション(例)
-
時間が前後する(「先」→「後」が固定されず、入れ替わることがある)
-
“今”が一つに定まらない(今が複数ある/今が帯のように続いている)(同時/非同時が定義できない)
-
過去・現在・未来がきれいに分離しない(層のように重なる・過去と未来が混ざる)
- 時間の流れが一様でない(速い/遅い/止まる/巻き戻るが混在する)
- 時間が連続していない(一定した流れではなく不規則)
このように、空間や時間の形式が普段のそれと違うだけで、
科学の土台(測定・比較・再現・法則化)は、成立しなくなります。
科学は進歩します。しかしその進歩とは。。。
前節で見た通り、科学の方法そのものが「普段の意識の形式」を前提に組み立てられている以上、
別の形式でしか経験できない科学の外側の世界を、科学の方法として扱うことは原理的にできません。
もし「別の形式」で成立している、「別の世界や領域」に触れたいのなら、
科学として何か新しい試みをするよりも、
私たち自身の普段の意識の形式――いわば「人間のOS」――を見つめ直し、
その枠組みを変える/超える方向を模索することが不可欠になります。
だから次に問うべきなのは、私たちの側の構造・形式です。
「普段の人間的としての意識のOS」を変えない限り、科学がどれほど精密になっても、
前提が違う領域には届きません。
■ 6:科学は不可欠である
ここで重要なのは、
これは科学の欠陥や失敗を指摘しているのではない、という点です。
科学は万能ではありません。
しかし、それは科学を軽視する理由にはなりません。
科学は、
-
盲目的な熱狂や個人的な思い込みから距離を取り
-
共有可能な知識を積み上げ
-
人類に計り知れない恩恵をもたらしてきた
極めて重要な知的営みです。
問題なのは、
科学が万能だと信じてしまうことです。
科学を否定することと、
科学を絶対化することは、
実は同じくらい危うい立場なのです。
科学は、
-
人間の普段の意識の形式(人間としての内部環境・3次元OS)と
-
数学の成立条件
に、極めて深く適合した営みだからこそ、
これほどまでに強力に機能してきました。
科学の成功は、
その「限界」と表裏一体なのです。
だからこそ次に必要なのは、科学を否定することでも、絶対化することでもなく、射程を正確に理解することです。
■ 結論:科学の射程を理解する
レベル0から見たとき、
科学とは、
人間の普段の意識の形式の内部で、
数学を用いて世界を理解するための、
きわめて洗練された技術体系
です。
科学は世界のすべてを語れるわけではありません。
しかし、扱える範囲においては、これ以上ないほど強力な方法です。
ただし扱える射程は、装置や理論の限界ではなく、私たち人間の意識の形式による制約です。
科学が触れられるのは、その形式の中で「データ化・共有可能化」された世界だけです。
本記事で確認したかった点は、要するに三つです。
-
第一に、科学が知識化できるのは「データとして取り出せ、共有可能な形式へ翻訳できるもの」に限られる。
-
第二に、その翻訳を可能にしているのは、空間・時間・因果・分離・再現性という「普段の人間意識の形式」である。
-
第三に、科学の成功はその形式への深い適合の結果であり、限界と表裏一体である。
科学も数学も“世界そのもの”に客観的・普遍的なのではなく、
人間の普段の意識形式(3次元OS)に対して客観的・普遍的に働いているだけなのです。
次に問うべきなのは、
「科学が扱えない領域は、ではどのように対応すべきなのか」という問題でしょう。
もし「別の形式」で成立している領域に触れたいのなら、
科学に新しい何かを付け足すよりも、私たち自身の認識形式――いわば「人間のOS」――を根本から見つめ直し、
その枠組みを変える/超える方向を模索することが不可欠になります。
言い換えれば、次に問うべきなのは「私たちの側の問題」です。
あとがき: このシリーズを書いている理由
この「レベル0からの数学論」シリーズを書き始めた理由は、いくつもあります。
その中でも中心にあるのは、次の問題意識です。
現代の科学や哲学は、驚くほど高度に発展している一方で、
あまりにも「3次元的な枠組み」を当然の前提としてしまっている。
空間・時間・因果・分離・再現性といった、
普段の経験構造(3次元OS)のルールが通用する世界を、
暗黙のうちに「宇宙や世界のすべて」だと見なしてしまう傾向があるのです。
もちろん、科学や哲学が必ずしもそれを常に主張しているわけではありません。
しかし実際には、3次元のルールが成立しない領域については、
ほとんど語られないか、語られるとしても“例外”として処理されやすい。
結果として、その領域は
「存在しないことになっている」かのように扱われてしまう。
だからこそ私は、
数学や科学が成立するための前提条件そのもの――
つまり人間の内部環境(意識の形式)――を
いったん分解し、可視化し、問い直すところから始めたいのです。
このシリーズは、数学や科学を否定するためではありません。
むしろそれらが強力に機能する理由を明らかにしつつ、
同時に「その方法では届かない領域」がどこに生まれるのかを、
最初から丁寧に見極めるための試みです。
これまでの記事一覧
第1回: 数学とは何か?「数学が始まるための条件」
第2回: すべての数学は「区別」から始まる
第3回: “同一性”と“順番”がなければ数学は成立しない
第4回: 数学は「因果」と「持続」がそろって初めて働く
第5回: 数学と空間
第6回: 数学と時間:数学が時間に依存している理由
第7回: 足す・引く ― 計算の前に必要なOS
第8回: 比較する・比べる
第9回:「自分という存在 ― 3次元OSの全体像」
前回(第10回)では、
「数学は普遍的なのか?――人間の意識の形と数学」 をテーマに、
「数学の普遍性とは何か」を検討しました。

