本当のマインドフルネスとは何か? マインドフルネスの「マインド」とは何か? マインドフルネスと宇宙意識
<本当のマインドフルネスとはなにか? マインドフルネスの「マインド」とは? マインドフルネスと宇宙意識>
~ 現代の3次元中心主義の中での現行のマインドフルネスの問題点
~ 本当のマインドフルネスとは何か?: 本当のマインドフルネスが宇宙にはすでに存在している : ありとあらゆる、全てが全てを、常に既に完璧に、マインドフルになっているという、すでに成立している「事実的意識」のこと
~ 西田哲学とマインドフルネス : 悟りとマインドフルネス
~ 小さなマインドフルネス: 現在の3次元志向のマインドフルネス
~ 大きなマインドフルネス: 本来のマインドの幅にもマインドフルになれる多次元的マインドフルネス
マインドフルネスの今のムーブメントを、僕自身はとても好きで、自分にとっても居心地の良い場所となっている。
これからも積極的に参加して行きたいと思っているのだけれども、この記事ではあえて、現在のマインドフルネス運動のマイナス面を指摘しようとおもう。
現在のマインドフルネスの「マインド」とは、多くの場合、普段のこの毎日の3次元での「マインド・心」を指している。その問題点を簡単に考えてみたい。
現在のマインドフルネスの問題点
現在のマインドフルネスと言った時の「マインド」とは、たいがいの場合、この毎日の3次元の上での普段の「マインド・心」を指している。
しかしその前提に、いつもたって良いわけではない。
なぜなら「マインド」と言っても、「高い宇宙意識」たる「マインド」すなわち、
「3次元の肉体的なマインドをはるかに超えたマインド」が、実際に存在してしまっているからである。
いわんや、そこに至るまでの、無数の段階の「マインド・心・意識」が段階的に存在する。
高いレベルのもっと本格的なマインドから見れば、この3次元のこの普段のマインドは特殊形態にすぎない。
従って、現行の3次元志向型のマインドフルネスの様に、3次元の上に生起する出来事や全体性に、マインドフルになる事をいつも中心化することは、色々な問題を発生させてしまう。
一部が全体であるかのように。。。
人間の「心」は、多次元的・重層的であるから、3次元の上での毎日の普段のマインドは、その一部を切り取ったものに過ぎないのに、
まるでそこしか存在していない様なふりをしていては、宇宙的な現実を無視する結果になってしまい、
まるで、3次元の日頃の出来事にフォーカスすることや、また普段の心身の状態を真摯に受け入れ・気づくこと、
そしてそのレベルでのワンネスを体験することが、我々の「気づく」範囲の全ての様になってしまう。
そうすると、その代償として、すでに強固に存在して現代人を制限している、現在の社会的な常識=3次元中心主義を、さらに強化する事となってしまう。
今のマインドフルネスの大きな貢献・可能性
ただし現在の3次元志向のマインドフルネスの様に、3次元での沢山の人間の生活を、手助けできる可能性のあることには、
何の疑問もない。また、これからも色々な方向に、活躍し発展するであろう。
しかしそこで話が普段は止まってしまっている現状が、3次元中心主義(3次元の事だけで話がうまく完結するような力学)という傾向を浮かびあがせている。
この世界は、事実として、高い世界は無数に存在すする。本当の宇宙は、99.9%が異次元であるのであるのだから、この小さな3次元しかないように振舞えば、
そこに自分たちを制限する事になり、本来の人間の持つ「マインド」の幅の可能性を封印する結果になりかねない。
その制限する行為は、宇宙がもつ可能性や本来性に合致しない。
そして、それらの高次元・異次元世界や意識状態は、存在の順番として、「先」である。
高い次元からまず存在し、そこから派生して、この3次元の普段の世界が成立している。
(西田哲学で言えば、絶対無から、有が成立しているという事。)
同じように、マインド・心・意識も、高い心や意識があり、そこから川の流れを、ちょうど上流から下流に下るように、毎日の心があるのであって、その逆ではない。
存在論的には厳然とした順番がある。
我々の普段の心から、この高い心や意識を体験できない・見えてこないからと言って、それらが存在しないという事では決してなく、「我々の普段の状態からはわかりません」というだけの事。
それに気が付けないのは、逆に、3次元意識に多くの人々がいつも占領されているという事の証でもある。
宗教哲学のヒューストンスミス(1919-2016)が話したように、科学は物質世界だけが唯一の現実であるという前提に、まだまだ多くが立っているので、現在のマインドフルネスのように、安易に自然科学に依存する傾向は、大きな問題を抱える事となる。
そもそもが3次元の物質性を根本にしたのが現代科学なので、
それ以外の次元については、あくまで間接的で部分的な扱いしかできないという、根本的な限界を抱えているがゆえに、
なるべく明確に、すなわち直接的体験的に理解し、本来のマインドの幅を体験しマインドフルにもなれる、多次元的なマインドフルネスに、アプローチする為には、
いくら自然科学と言えども、依存はできない。
むしろ、3次元の上での話については大いに参考・協力にしながらも、現行の唯物論的な「小さなマインドフルネス」の方向性とは、健全な距離を取り、
本来の大きさをとりもどした、「大きなマインドフルネス」も同時に進行させることが、
人間のマインドの本来の可能性に向き合う事となる。
従って、この大きなマインドフルネスを、その有効性や重要性を、
再び3次元の物質科学の尺度だけに閉じ込めないことが、自家撞着(じかどうちゃく)を避ける方法である。
本当のマインドフルネスとは? 本当のマインドフルネスがすでに存在することに気づくこと
本当に本当の意味で「気づいている物」が、すなわち、本当の本当にマインドフルな何かが、宇宙にはすでに存在している。
本当のマインドフルネスは、人間側の都合に寄らず、事実として、「本当の気づき」・本当のマインドフルネスが、すでに存在してしまっている事に、気づくことである。
本当のマインドフルネス(気づいているという事)とは、
3次元をこえたた、ありとあらゆる全ての次元を含めて、全てが全てを、既に完璧に、マインドフルになっているという、もうすでに成立している「事実的意識」のことである。
唯一無二の事実、それは、全体性は全体性自身にすでに目覚めている、すなわち、
本当のマインド(無限意識)は、本当の自分自身(無限意識)に、いつも完璧に目覚めているという事。
すなわち、本当のマインド・無限意識とは、常にマインドフルの状態以外がありえないという事。
簡単に言えば、目覚めの事。
絶対無が絶対無(自分自身)にいつも常に目覚めていたことに、目覚める事。
本当のマインドフルネスの手前には多次元的なマインドフルネス
この「本当のマインドフルネス」(唯一無二の絶対無の事実)の手前には、「大きなマインドフルネス」がある。
それは本来的に存在するのマインドの幅をより広く体験し、より大きくマインドフルになるという「多次元的なマインドフルネス」がある。
そしてその手前に、現在の多くの人が考える、3次元志向型の現行の「小さいマインドフルネス」が存在することになる。
現在の3次元マインドフルネスの立ち位置
このような「大きなマインドフルネス」に、少しづづ近づくためには、3次元的なマインドフルネス運動も、当然ありえるわけである。
現在の日本ではマインドフルネス系の会議で大きなものは、wisdom2.0とzen2.0という2つの会議が行われている。
両方ともその内容はとても充実している。素晴らしい登壇者と、そして多くの意欲的なボランティアのスタッフに支えられた、すばらしいコミュニティを併せ持つ、大きな可能性を秘めた会議である。
3次元の毎日の生活を立派に遂行していくこと自体は決して容易ではない。それ自体が精神的な成長を必要とする、厳しい修行の場である。
そういう意味では、繰り返しになるが、3次元志向の「小さなマインドフルネス」が、
毎日の生活を立派にサポートするという立派で大切な目的に、大きく貢献する事に間違えはない。
しかし、例えばWisdom2.0創設者のソレン・ゴードハマーさんが話す、「Wisdom(叡智)=内なるテクノロジー」を開花させるためには、何が必要なのであろうか?
「叡智(えいち)=内なるテクノロジー」を、3次元のマインドやそのテクノロジーに限定することから離れる事こそが、提供すべき目覚めの一部なのではないか?
普段の感性や今の社会の枠組みに、上手くあてはまる事への、犠牲も大きいのではないか。