野菜や昆虫と話せる世界へ進歩する ・最先端技術とは野菜や川と交流できる事 

野菜や昆虫と話せる世界: 野菜や川と交流する社会に社会構造変革へ>

~ 人間の無限の可能性を止めないとはどいう事か?

~ 野菜や川と交流する社会 = 産業構造変革の軸

~ 共感覚・サヴァン症候群、意識の可能性・開け

~ 「見る・聞く・話す」事の可能性は、意識を広げることで本領を発揮する

~ wisdom2.0 Japan に参加して: 「Wisdom(叡智)=内なるテクノロジー」を再発見するとは?

 

人間の意識(心)の可能性は無限大

人間の可能性は「無限である」とよく言われてはいるが、 現代社会ではそこのところが、よく理解されていない。人間の可能性が「無限」だとは、本当に本当の無限のことなのだ。

 

どういう事かと言うと、人間の意識を無限に広げていくと、人間が人間自身を超えて、宇宙意識になってしまうという事。

 

詳しく言えば、人間の意識は毎日の普段の状態から「少しだけ広げられる」んじゃない。そんなせいこいもんじゃない。

 

そうじゃなく、人間の意識は「どこまでも広げられます」なのだ。広げ続けてやがては、人間の意識でさえなくなり、さらに広がり続けて、無限そのものになってしまいますよなのである。

 

「有る」と「無」いの区別も超えてどんどん深まり、 人間は最後は絶対無にもなりますよと、西田哲学は言う。

 

なんという、驚き、可能性だろうか。

 

 

人間の可能性や未来をラディカルに想像してみよう

無限に広げられる、いや広がってしまう、その人間の可能性や多様性の凄さを考えて初めて、人類社会の未来像も、ラディカルに想像できる。

 

前人未到の170キロの剛速球も凄いには違いない。また今年は大谷選手の二刀流に、僕も度肝を抜かれた。でも、もっともっと外側を見ることで、人間世界の地平線を広げていきたい。

 

人間が人間でなく、宇宙になってしまったら、どんなことが分かるんだろうか? そんな宇宙になるもっと手前の過程でも、どんな能力を手に入れるのだろうか? 

 

人間の能力の可能性は、そんな風に意識をどんどん広げるところで、本領を発揮し、そちらにこそ大きな可能性が潜んでいて、普段の状態では見えてこないことが沢山あるとしたら、これから社会・教育はどうあるべきなんだろうか? 

 

普段の狭い限定された想像ではなく、無限の開放性を志向しながらの未来戦略。それを視野に入れると、AIやロボット・量子コンピューターなどとの、関係の結び方も見えてくる。

 

野菜や昆虫と話せる世界

元々は野菜や昆虫と話せて当然であるというのが僕の人生観

 

だって、人間は、人間自身も超えて、宇宙全体にもなれるほどの存在なのだ。だからその人間の可変性(変化することができる度合い)に応じて、人間の能力も、同じく可変的で多様性に富む。

 

「交流可能な範囲」もまた当然変化すると考える方が、広い目で見れば、自然であり理性的。

 

だからざっくり言えば、

昆虫や岩や川と人間が交流できる可能性を享受する(ありがたく受け取る)ようになるのが、人間の本来の自己実現の一部。だから、そこを無視している今の社会を見直すことは「進歩」である。

 

 

産業構造変革の軸を変化させるとは

例えば昆虫や海などとの、異なる存在同士の交流が進まないのは、意識を開けられていない、意識をあけることを学んでいないだけのこと。

 

そもそもの人間の本来の立ち位置や可能性は、「意識の開け方とそれがもたらす恩恵」に向き合う・フォーカスする事にある。

 

次の産業革命は、そこに向き合うべき。

意識の開け方、意識の広げ方へ、そしてその恩恵へと。

 

産業の「開け」・「進歩」が、人間の意識の「開け」とともに有る

産業の構造が変わる・成長する事の軸を、人間の意識の構造が開かれ成長する事に置く。

もし世界の中での日本のリーダー役が試されるなら、経済成長や社会の構造改革において、そういう分野で発揮する。

 

これをざっくり言えば、例えば、

野菜と話せる、昆虫の気持ちがわかる、岩や海と交流するという様な類のことが、産業や社会の構造改革の中核の一端となっていくべきで、

 

その様な地球と共にある生き方の共有をする社会が、「先進的」であると僕には思える。

 

そしてまた、地球レベル、物質世界をも超えて、そのメタレベルの視点。その人間が人間を超えていくときの過程や気づきの、共有と拡散

本来の革命とは、この様なところにある。

Blue Waterlily Flower. Macro Photography

共感覚: 意識の開け方の多様性

色や文字を見ると、色や文字が見えるだけではなく、音も聞こえてくる。

音が聞こえてると、音だけではなく同時に色も見えてくる。

景色を見ると、同時に数字や幾何学的な図形も見える。。。という「共感覚」というものがある。

 

有名な音楽家や芸術家、例えばバーンスタインなどの指揮者、リストやシベリウス等の作曲家なども、共感覚を持っていると言われているが、普段の意識状態から「外れる」ことは、そのまま異常・幻想であるのではなない。

「音」「色」「数字」は、普段の我々にみせる姿だけで存在はしていない。その多様性の豊かさに向き合い、共感覚者を排除するのではなく逆に、人間の意識の開け方一つで、様々な認識構造が可能になるという、もともとの人間の多様性や可能性に対面する喜びと学び。

 

共感覚者やサヴァン症候群の中には、円周率22500桁を暗唱し10ヵ国語を話す人だっているぐらいなのだ。とてつもない神秘と可能性がそこにはある。

 

また別の例では、あるごく普通のアメリカの40代の家具屋の店員が、カラオケの後で強盗に襲われ、「強盗に暴行され脳損傷を負う。気づいたとき、彼にはすべてのものが、幾何学的な図形として見えるようになっていた」という、数学の天才的才能が脳の損傷により目覚めてしまうという実話もある。

だから人間の認識能力は、もともと摩訶不思議(まかふしぎ)、いや不思議の連続

 

僕にとっての共感覚とは、脳科学の説明や感性とはすこし違う。意識の開け方次第で、「見る」・「聞く」などは、無限に多様化していく、その壮大な過程の始まりを、毎日の現実的な文脈の中で見せてくれているものが「共感覚」。

 

見る・聞くの可能性は無限である

「見る」や「聞く」は、この毎日の肉体意識にそもそも限定されえない。

 

この肉体を捨てたって、まだまだ「見る」や「聞く」は存在し続け、どんどんと進化・変化し続ける「無限定」

 

そこでは、「見る・聞く」とは「一体何なのであるのか??」が、決められないほど多様で自由。

 

だから「凄すぎて何なんだかもう決めようがない」という「無定形」さが、元々の「見る」「聞く」「話す」ことの深層。

 

だから、この3次元の波動の中でさえも、その「決められなさ」という、宇宙的な不思議の一端を、見せてくれることがあるというのが、僕から見た共感覚やサバント。

 

昆虫と話せる・川の流れと交流できるというのも、同じこと

 

「聞く・見る・話す・分かる」が、もともと無限で無形なのだから、たとえこの肉体次元のレベル(またはその付近)でも、その無限性の「少し」を発揮すると、「見える聞こえる話せる」は、別の形の「見える聞こえる話せる」として成立し、可能となる。

 

「見える聞こえる話せる」自体が、もともとは宇宙の摩訶不思議の一部だから、その壮大な摩訶不思議を、なるべくそのまま摩訶不思議として、また宇宙が与えてくれる豊かさの実感として社会に広げていきたい。

Milky way stars at night, the sky gorgeous landscape

今の自然科学中心の考え方では、逆さまになっている

「見える・聞こえる・話せる」事が、死ぬ直前に肉体感覚が弱まったその瞬間「少しだけ可能です」ではなく、いやそれどころか、肉体がないところでこそ本来の可能性と豊かさを発揮するとしたら、どうだろうか?

 

例えば脳科学などで「見える・聞こえる・話せる」の全体像や真相を、この肉体の脳の働きにひもづけるのは、本来的には無理なのだ。

 

もし、ひもづけるとすれば、もともとの無限の可能性と多様性にひもづけるのが順番として正しいやり方。

 

あちらがあるから、こちらもある。

 

あちらに無限大の開けがあり、こちらは狭い枠組みの中に入った時のおはなし。

 

とは言え、「見る・聞く」や、共感覚やサバント症候群についての、自然科学の貢献も確かに大きいので、これを否定するのでは全くない。

 

しかし、この3次元内の因果関係にあえて拘束しない「広がり・ゆるやかさ」がこれからの「成熟」であって、

 

異世界的でなじみの薄い能力や、自分とは異なる世界の価値や体験談に学んでいけるか。

 

そこが、画一的な集団にありがちな「死角を埋めていく」という事。「普通」の外側で、本当にあり得る可能性の幅を、すこしづづ皆で感じ取るという事。

 

かつて哲学者ウイリアムジェームズも言ったように、本当に人間にとって深遠で崇高な体験をする人は、社会では「病的」であるかの様に判断されてしまう事も多いという。

 

でももし「多様性」や「民主的」という事が、我々にとって大切ならば、意識の開け方の多様性を、もっと尊重し民主化し、「どういう存在」と、人間は「交流できるのか」という可能性の幅を、人間存在の根本的な問いとして、それを社会全体として、考えていくべきである。

 

Wisdom 2.0 Japan に参加して 先端技術 = 先端意識

今年のWisdom2.0  Japan に先日参加し、そこでの2日目に登壇した、アメリカン人の禅の僧侶、SONRYU FORALLさん:

宗隆 フォラル 禅僧/Monastic Academy さんの発言などに強く感激し、また、ニューヨーク在住の佐久間裕美子さん(文筆家)の「市民革命」の話も、とても良い刺激を受けた。

 

Wisdomn2.0 Japan では、Wisdom(叡智)=内なるテクノロジーを再発見する」ことが一つのテーマであったわけだが、今回の会議で出てきた「宇宙の知恵につながる」という様な方向性と、「次世代技術」「次のテクノロジー・最先端技術」という様な話を、自分の言葉でつなげると、

 

次世代のテクノロジー・最先端技術とは:

先端技術 = 先端意識 のことであると思っている。

 

これは宇宙の必然である。

 

現実界というものは、レベルが上がるにつれ、物質的な性質を弱めていくもの。だから、物質的な技術でも、上級化するほど、脱物質化する運命にある。

 

脱物質化する技術

これは宇宙的な構造であって、人間側の科学的な理性の都合の上には存在しない。だから、この物質界においても、上級化しそこから逸脱するレベルに段々と近づくと、脱物質化し、精神化していくのが必然である。

 

だから、次世代のテクノロジー・最先端技術を考える時には、例えば、野菜や昆虫・川の流れと話せる様な類の事が、「最先端の技術」になる可能性は十分にある。テクノロジーは脱物質化して本格的になり、そんな別次元的な感性を沢山手にいれて、宇宙の全体像と多様性を見失わない「最先端」になると思っている。

 

脱物質化したら、現在の科学が依拠する、唯物論では間に合わない。

 

だって、物質が存在しない、脱物質化した場所については、唯物論・物質中心主義では扱いようがない。

 

人間は、人間自体を本当は超えてしまう存在だからこそ、人間である

 

そんな様な不思議な矛盾の構造を、西田哲学などでは、絶対矛盾の自己統一と呼んだりするが、

 

人間の可能性は、人間でなくなるほど、奥が深い。

 

 

参考本* ドレミファソラシは虹の七色?~知られざる「共感覚」の世界~ (光文社新書) Kindle版