愛は、川の流れのように—好きになれない自分を包む力 自己肯定感をあげる方法(総論)
愛を流す哲学”:好きになれない自分への新しいアプローチ
💫 よくあるループ:「自分を好きになれないから、自分はやはり好きになれない」
否定的な自分への思い。なかなか自分を認められない、受け入れられない、欠点の多い自分を好きになれない。。。。
これについて、一般的な考え方では、
「自分のことが好きになれないのは → 好きになれないような自分だから」
ということになります。
だから、多くの人はこう考えます。
「好きになれない自分を、どうにかして“好きになろう”」と。
でも、これがなかなか難しい。
自分を好きではない → だから自分を好きになれない という循環にはまります。
──このループの中で、いつまでも堂々巡りをしてしまいます。
「好きにならなきゃ」「認めなきゃ」と思えば思うほど、
心のどこかでこう感じるのです。
「嘘っぽい」「無理だ」「できない」「だから苦しい」と。
結局また、「やっぱり私は好きになれない」と落ち込む。
だけど、「好きになれない」は、それでいいのです。
それは──
「好きになる」のではなく、「好きを注ぐ」こと。
好きになれないままでも、一方的に愛を注ぐことはできるのですから。
💖 嫌いな自分にも愛を流すという、最も根源的な行為
多くの人は、「自分を好きになってから、自分を愛そう」と思っています。
「自分でも認められるような自分になってから、自分を愛そう」と。
でも、
この宇宙の根本には、「愛だけ」という状態があります。
そこには争いも、欠乏もなく、ただ「すべてがすべてを愛している」世界・状態。
存在するものすべてが、他のすべてから愛され、同時に愛を放っている。
それが、宇宙の本来の姿。
それに自分を合わせて行く。
愛しかないという状態へ、段々と近づけて行く。
💖 「好きじゃなくても、愛を流すことはできる」
“好き”という個人としての判断や感情の前に、“愛”という普遍的なエネルギーが存在する。 (存在論的なステイタスの違い)
だからこう言えるんです。
好きになれないなら、それでもいい。
その“好きになれない自分”に、愛を流してあげればいい。
つまり、今は無理に好きになろうとする必要はない。
ただ、自分の方から一方的に、愛を注げばいい。
これまでの自己啓発・心理療法・スピリチュアルの多くは、
「自分を好きになりましょう」「自分を受け入れましょう」と教えることも多かったのですが。。。そうではなく。。。
♥ 嫌いな自分に対して、一方的に、自分から愛を注ぎ込むことは出来ます!
それは個人の感情の操作ではなく、意識のレベルの選択。
「好きになれない」自分の状態そのものに愛の光を当てること。
からこう言えるんです。
自分を好きじゃなくても、愛を流すことはできるのは、
「好きではない状態」も永遠の愛の流れの中に存在するからです。
好きではない自分も、永遠の愛の一部でしかありません。
従って。。。 自分が自分を今は好きではなくても、構わない!
なぜなら、好きになれない自分も、どんな時でも気がつかないうちに、深い永遠の愛の対象になっているのです。
永遠の愛の流れの一部として、愛の対象に常になりうるのです!
“愛を流す”という行為は、個人的な感情よりも深い次元、存在の決意表明・根本的な意識の方向性の実現。
だからこそ、嫌いな自分を前にしても、愛を流すことができる。
それは、愛を「感情」ではなく「ソース」・「源泉としての意志」として生きること。
人間の意識がもっとも深い次元で自由であることの証明です。
💖 表面の好きでも構わない!
でも──そんなに難しく考える必要もありません。。。。
深い悟りのような愛じゃなくてもいい。
もっと身近に。
もっと簡単に考えましょう。
普通の「好き」でも、表面的な「好き」でも構わない。
普段のレベルの「好き」を、あまり好きになれない自分に、一方的に流せばいい。
自分を今は無理に好きにならなくてもよい。
今は自分を好きになれなくてもよい。
好きになれない自分、欠点が多い認められない自分に対して、一方的に自分で愛を注ぎ込めばよい!
完璧に愛せなくても、
認められない自分、欠点の多い自分に対しても、
“好き”のエネルギーを一方的に流すことはできる。
好きになれない自分、うまくいかない自分、欠点だらけの自分。
そんな自分に対して、
「まあ、今日もよく頑張ったね」
「それでも、私けっこう好きだよ」
と、一方的に“好き”を流してあげる。
それが、ほんの小さな「好き」でも、
やがて心の中で、確かな「明るい光」になっていきます。
自分の色んな感情を変えようとしなくてもいい。
いろんな感情を抱えていても良い。
理屈で納得しなくてもいい。
ただ、“好き”のエネルギーを自分に向けて流す。
これだけで、心の温度が少し変わります。
自分を変えるのは、“完璧な愛”ではなく、
あなたの中から流れ出す、小さな「好き」の一滴からです。
もし「好き」「愛」が大げさすぎるなら。。。。。
その代わりに、もっと気軽に、
* 「今日はよくやったね」と少しだけ優しく声をかける。
* 「この部分だけは、悪くない」と微笑む。
まずは、そんな「かなり小さな」好きでもいいんです。
別の言い方で言い換えれば、
* 自分を好きになれない状態でも、自分に「大好き」を流すという行為は出来る。 (状態と行為を区別する)
たとえ表面のレベルでれ、好きになれない状態も、大好きの流れに取り込んでしまえる。
🌿「愛を注ぐ」は、“好き”を超えた存在の選択
愛とは、静止した感情ではなく、絶えず流れている宇宙のエネルギーという側面ももっています。
宇宙のすべてを包み込み、どんなものも拒まない「流れ」。 (Flow・フロー)
深い愛は、どんな条件にも左右されない根本的な“流れ”。
私たちは、その流れの一部でありながら、同時にその流れを動かす存在でもあります。
だから、
愛を「流れ」として考えた場合、全てを包むその愛の流れを、
好きではない自分に、愛を動かし流すという「行為」で、永遠の愛の流れに自分を統合して、癒していく。
そして気づくと、
「愛される側」ではなく「愛の流れそのもの」として生きている自分に、
あなたは戻っていくのです。
愛の流れを自分の方から動かすことで、
自分の内側の分断がゆるやかに溶け、全体が再びひとつの流れとして徐々に動き始めます。
自分から愛を送ることで、愛の流れに自分を取り戻していき、
自分の根本的な存在性に目覚める、「あ~、自分は愛の流れだったんだ」と!。
これは、東洋的に言えば“慈悲”にも近い考え方です。
慈悲とは、好き嫌いの個人的な判断を超えて、「苦しんでいる存在に愛を注ぐ」意識の流れと言い換えることが出来るかもしれません。
そして、その慈悲を自分自身にも適用するということ。
🌸 愛される前にこそ、永遠の愛の流れにつながりやすい
多くの人は、「誰かに愛されたい」と願います。
普通、私たちは「愛されたい」と願います。
誰かに認められて、優しくされて、理解されたい。
それが叶わない時、人は孤独や無力感を感じます。
でも、誰かに愛されていないと感じるその瞬間こそ、
条件を超えた、無条件の愛の入り口が開くときでもありです。
愛される前に、自分へ“愛を流す”。
愛は、誰かから与えられるものではなく、
もともとこの宇宙を満たしている永遠の流れです。
その流れは、あなたの内側にも、常に静かに流れています。
最初は、表面的な“好き”でかまいません。
優しい気持ちや、ちょっとした「まあ、いいか」でも十分。
そんな普通の感情でも、あなたの意識を永遠の愛の流れへと接続してくれます。
愛とは本来、無条件。
完全に好きでなくても、嫌いな自分でも、
自分の方から能動的に愛を流すことができる。
条件が整っていない。。。。関係ない。
愛は両思いで、双方向でないといけいない。。。。関係ない。
都合の良いときだけ好きになるのではなく、
苦しい時、認められない時、うまくいかない時こそ、
自分の中に“愛を流す”。
だからある意味──
「愛される前こそ」永遠の愛の流れに近づきやすいとも言えます。。。
それは表面の“感情の操作”ではなく、
“永遠の愛”を人間としてすこし実践し始めているということ。
自分で自分を受け入れられない時。
誰からも愛されていないと感じる時。
その“欠乏”の中でこそ、
無条件の愛を流す力が目覚めていく。
欠乏が、気づき・覚醒を呼ぶ。
「好きでない自分だからこそ愛する」
「愛されない自分だからこそ愛する」
──それは、宇宙的な愛の“ミニバージョン”。
あなたの中で、永遠の愛の流れを“模倣”している行為です。
そうしているうちに、あなたの中の“好きではない部分”さえも、
愛の流れに包み込まれていきます。
その時あなたは、
「愛される存在」ではなく、
「愛そのもの」として少しだけ生きはじめている。
そして段々と、自分によって、どれだけ今まで自分が愛されていたのかを、感じ取っていく。
🌸 愛することは、「賛成」することとは違う。
汚れた石も、川の流れに包まれています。
汚れを認識していても、川はそれを拒みません。
ただ、静かに、無条件に包み込みます。
川は流れながら、汚れた石を磨きます。
太陽の光も同じです。
太陽は、誰をも分け隔てません。
善人にも、悪人にも、同じように光を注ぎます。
けれど太陽は、誰かの行いに賛成しているわけではありません。
悪人の行為や考えに、賛成しているのではありません。
むしろ太陽は、成長を、変化を、改善を静かに促しています。
欠点を正し、欠陥を癒やすことを、光の中で望んでいるのです。
賛成しなくても、愛として存在し、愛として働く。
永遠の愛の流れに、
私たちの欠点も、過ちも、すべて包み込れていても、
それらに賛成しているわけではありません。
愛はすべてをナイーブに肯定することではありません。
むしろ、はっきりと「それは違う」と言いながらも、
それでも無条件に包み込む。
愛は、「反対しながらも、愛する」ことができる。
愛は、間違いを放置することではなく、
改善して、成長へと導く力そのものです。
私たちの中には、好きになれない自分がいます。
欠点があり、間違いもあり、勘違いもあり、
足りないところ、良くないところも、たくさんある。
無条件の愛とは、
「自分の欠点や間違いを無視すること」ではありません。
むしろ、欠点を欠点として認識しながら、
それでもなお、愛の中に愛として包み込む力のことです。
愛は、欠点に賛成しません。
だから、私たちは自分の欠点の存在を、拒む必要ないのです。
それを包み込み、流れの中で磨き、
少しずつ光に変えていく、少しずつ光へと導いている。
* 愛は、自分の欠点の無視や否定ではなく、欠点を包み込みながら進化させる力
* 愛は、自分の欠点に賛成・同意することなく、変化を促す共鳴
愛は強い変化のエネルギーでもある。
このメッセージには、当たり前のことが示されています。
-
恐れや罪悪感の中では、変化は「防御反応」になる。 → 変化に積極的には取り組めない。
-
愛の中では、変化は「自然な成長」になる。
つまり、愛な効率的な自己改善の環境。
なぜなら、
「責めらている時」よりも「支らえている時」の方が、
人は安定して強くなり、そして素直に変われるからです。
愛されている時、人は変われる。
愛の流れの中では、
冷静に自分の欠点を見つめる勇気が出てくる。
否定ではなく、改善として向き合えるようになる。
好きになれない自分、
欠点も、弱さも、情けない過去もあるかもしれません。
そんな自分にこそ、愛を流すことに意味がある!
自分で自分を、愛の成長の流れの中に入れてあげられるのです。
自分への愛が流れている時、
自分の欠点は“改善されやすい状態”にある。
🌸 ここにある逆転の美:愛を流すほど、“嫌いな自分”が癒えていく
最初はたぶん不自然です。
嫌いな自分を見つめながら「愛してる」「大丈夫だよ」と言うのは、
頭のどこかで抵抗が起きます。
恥ずかしい気分になるかもしれません。。。
でも、それでも続けると──
愛を流すたびに、少しずつ“嫌いな自分”が溶けていく。
なぜなら、愛を流しているうちに、
「嫌っていた自分は=自分の愛を求めていた」と気づくから。
そして気づくと、
全ての存在は、愛に飢えている!
なにより、自分自身が、愛に飢えていた、特に自分からの愛に!
結局、愛を流すことで、自分の中の“分裂・分断”が統合されていく。
難しい言葉で言えば、「能動的愛による自己統合」。
🌞 まとめ:愛は双方向ではなくても成立する
好きではない自分を愛することは矛盾ではありません。
むしろ、それこそが無条件の愛の本質。
愛は、表面の個人としての感情の結果ではなく、深い宇宙意識意識を選択すること。
愛は、個人としての好き嫌いを超えた、“愛という光を注ぐ行為”としても存在する。
そして、
愛を流すことで、“嫌いな自分”が永遠の愛の流れの循環の中に戻ってくる。
──これが、自分にしてあげられる、圧倒的な癒しです。
愛は流れ。好きになれない自分も、本当はその中にある。
“愛を流す”という生き方を選択する事で、
好きになれない自分も、愛の流れの中で変わっていく。
愛は安易な「賛成」ではない。
自分の欠点を認めて、改善して行くための環境として考えるべき。
嫌いな自分をも愛で包むという選択で、愛は自己改善・変化の力となる。