3次元絶対主義とは何か(試論A) ─ 「五感限定主義」から始まる、目に見えないイデオロギー
3次元絶対主義─3次元しか存在しないという常識の暴力
異次元は存在しないのではない。存在しないことに“された”のだ。
私たちは、その不可視化を支える、現代社会の中の地図・規則・制度を見直し、認知的自由を社会の基本に戻す。
定義
三次元絶対主義=三次元の内側で作動する意識(=三次元意識)を唯一の正当な意識/知として絶対化し、
その前提のもとで「意識状態の変容」を信用しない/許さない/無効化する体制。
結果として、三次元以外の層に触れるための手段(意識変容)が封じられ、
「三次元以外は存在しない」という結論があらかじめ確定化している自己循環。五感(+五感で使用可能な器具や機械で拡張された五感)で捉えられるものだけを認め、
その他の意識状態やそれにより経験される3次元以外の世界や体験(異次元・スピリチュアル体験・瞑想・予知夢・NDE・宗教的恍惚など)を否定・排除する態度。
その前提を社会制度に固定し・広く運用して、五感を超える経験(直観・内観・スピリチュアル・宗教体験や死後体験など)を劣位化・排除する体制。
近代のヨーロッパに誕生し、現在は地球全体をコントロールしている強力な信仰・見えないイデオロギー。
三次元以外があるかどうかは、本来、意識の状態を切り替えることでしか検証できない。
にもかかわらず、三次元絶対主義は三次元意識を唯一の正当なモードに格上げし、意識変容を信用しない/許さない。その結果、異次元に触れるための手段が封じられてしまう。
こうして「見えない=存在しない」という結論が、前提によって保証される自己循環が出来上がる。
1. 井の中の蛙と、自己言及の罠
三次元の道具は、三次元の中で輝きます。
精密な最先端の顕微鏡は微細構造を、高度な望遠鏡は遠い宇宙の星を、脳のスキャンは脳の中の活動パターンを見せてくれる。
そんな科学の恩恵に恵まれた、豊かな現代に我々は毎日生きています。
しかし、それらは「物質世界の内側」のための専用の道具です。
にもかかわらず、道具が届かない領域は存在しないと断じてしまうと、私たちは“自己言及の罠”に落ちます。
自分の物差ししか認めない落とし穴、自分のルールで、すべてを裁いてしまう間違いに陥ります。
現在の地球を支配するイデオロギー、3次元絶対主義をわかりやすく言えば、
* 「日本から一歩も出ずに、日本以外は存在しない、と信じ込む」ようなものです。
日本地図だけを世界地図だと言い張れば、海の向こうの気候も文化も歴史も、想像すらできません。
日本から出ようとも思わないし、もし日本の外側を探ろうとしたり、ましてや日本の外側に出る営みは、非理性的・クレージーな愚行になってしまいます。
現在我々は、とても不思議な偏った世界観の中で毎日をすごしています。
3次元しか存在しないという、元々ありえない、存在するはずもない特殊な世界観です。
その中によくある考えは、
* 「五感で捉えられるものだけが現実だ。 なぜなら現実とは五感で捉えられるものだから。」という、
定義を定義で支えてしまうという、グルグル回る、循環してしまう自己正当化です。
これを比喩でいえば、井の中の蛙です。
蛙は井戸の内側だけが世界全体だと信じて、井戸の外側の存在を否定します。
けれど、井戸から出た瞬間、空の広さ、潮の匂い、波のリズム、見たこともない生物、そして自分の立ち位置が初めて分かります。
外へ出ることで、井戸の内側の意味も反転して見えるのです。
* 「もし三次元の枠の中でとらえられないなら、三次元以外は存在しない、(そのような考察は信用に値しない。)」
という考え方は堂々巡りになります。
ラジオのチューナーを思い浮かべてください。
特定の周波数に合わせている限り、その局の放送しか“現実”になりません。
他局の音楽やニュースは、確かに空間に存在しているのに、チューナーの設定が拾わないだけで「ないこと」になってしまう。
五感も同じです。可視光の狭い帯だけを“色”と呼べば、紫外線や赤外線の世界は無かったことになる。
けれど、蜂は紫外線を“見て”花の模様を読み、鳥は地磁気を“感じて”航路を引く。
私たちのチューナーがそれを拾っていないだけで、宇宙や世界はもっと厚みを持っています。
そして、もう一歩。
もしも異次元を経験するためのチューニング(スピリチュアルな能力・脱3次元の感性や経験モード)が、
教育や制度の段階ではじめから否定・排除されていたら──
経験しようがありません。
「見えないように育てられた」だけなのに、私たちは「見えない=存在しない」と誤解してしまう。
Wi-Fiの受信機を持たない人には、ネットは“存在しない”。
しかし、Wi-Fiの通信は空間を自由に走りまわっているのと同じことです。
チューナー、すなわち、異次元を経験できる能力が、
もしはじめから否定されるように育てられ、手の届く範囲から排除されれば、普通は経験できるわけがありません。
ここが重要です。
「見えない=存在しない」ではない。
「見えない=今の道具では捉えにくい」にすぎない。
それなのに三次元絶対主義は、井戸の外側を幻想・錯覚・無意味と宣告する。
これこそ自己正当化の矛盾です。
三次元の内側の原理(五感+そのための器械)で、三次元の外側の実在を決定することはできません。
それでは、原理主義と同じになってしまいます。
三次元絶対主義は、社会の基準を独占し、三次元上の基準だけを受け入れる。
そして三次元の外の基準や方法を無効化・排除する。
科学の進歩は大変ありがたく、科学的な実験の繰り返し尊い行為ですが、しかしそれを唯一の現実原理に“格上げ”した瞬間、
宇宙のほんの一部を「宇宙の全部」と取り違えることになります。
ここに、暴力・排除が生まれます。
2. 中核は「五感限定主義」と「三次元意識の絶対化」(認識論)
三次元絶対主義の芯は、次の二点にあります。
(1) 五感限定主義
五感(+その延長としての計測器)に乗る現象だけを、公共的な「正当な知」の対象として承認する。
それ以外の脱五感的な経験(直観・内観・祈り・超越的体験・NDEなど)を体系的に排除するか、信頼できない低級なものとする。
① 五感だけを正当化 → ② 五感で捉えられない経験を無効化 → ③ 意識変容の実践が細る → ④ 異次元の証拠が現れない → ⑤ 「異次元はない」が確証されたように見える。
こうして、手段を封じたことがそのまま結論の根拠にすり替わる、自己循環が起きます。
(2) 三次元意識の絶対化
三次元の枠で作動する意識/知性(五感依拠の意識状態)を唯一の正当な知として上位に固定し、
他の意識状態(沈黙の知・瞑想的洞察・夢見・霊的覚醒など)を無効化・排除する。
“意識変容の無効化”により、異次元体験の手段を封じて、先に結論を固定する仕組み。
ここで五感だけに依拠した「観測の公共性(みんなに同じように見えるか)」が唯一の正当性基準になり、
(第三者が、五感とその器具や機械で再現できる経験だけを、“正当”とする基準が当たり前となり)
人間の深層で体験する現実界や、五感の外で起こる出来事は、社会の表舞台から外されてしまいます。
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対象の独占: 認識の対象を「五感+その器械拡張」で捉えられる現象に限定。
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方法の独占: 3次元上の方法で再現できない経験を無効化(「存在しない/意味がない」)。
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価値の序列化: 3次元的な方法では捉えられない経験や、それでは測れない世界や意識状態を、劣位に配置(嘲笑・周縁化・排除)。
3次元の外側に実在する、膨大な異次元の領域が排除されて、まるで3次元しか存在しない様ないびつな世界観が固定化していきます。
(「三次元意識の絶対化」は、脳波の比喩で言えばβ(ベータ)帯を中心化し、α・θ・δ・γといった他の帯域に対応する静穏・没入・深層休息・高次統合の状態を周縁化/不可視化する排他的パラダイムでもある(※ただし脳波帯域は重なり合い、単純対応ではない。)
3. 測定主義 (運用原理)
測定主義は「三次元絶対主義の運用形態」です。
測定主義=「三次元意識のモードで、三次元的な道具や基準で測定できるもの」を、価値ある・信用できるとする信念・態度。
五感限定主義が運用ルールになると、社会の承認や賞賛や注意、権威や資金や人的な流れが、三次元の枠内で測定できるものに収束していきます。
3次元の上での点数・ランキング・統計・エビデンスがいつしか「価値や基準」として格上げされ、
目に見えない世界や、脱3次元の基準から社会全体がますます離れて行きます。
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測れる=大切だが一部にすぎない
3次元の数字や基準で見える部分は現実のごく一部。数字ではひろえないスピリチュアルな「世界」や「関係性」「意味」が排除される。膨大な異次元は無視され、わずか一部でしかないこの3次元だけ前面にでるようになる。 -
測定主義は“排除装置”として機能する
3次元の枠内では測れない体験(深い瞑想、NDE、スピリチュアルな覚醒など)は「信用できない」「意味がない」と社会制度から切り落とされやすい。
4. 社会制度への埋め込み (制度化)3次元の枠に閉じ込められる
三次元絶対主義は、単なる思想ではありません。
それは教育、職場、医療、メディア、政治といった社会制度の骨組みに入り込み、
「まるで三次元しか存在しないかのような世界」を作り上げています。
私たちは、その内側をぐるぐる回るうちに、外の広がりを忘れてしまうのです。
いつの間にか人々を自己検閲(自主的に自分ですすんで自分をコントロールする)
へ追い込み、意識状態のコントロールが当たり前になっています。
5. 教育
子どもたちは、テストの点数や偏差値という三次元的な数値で序列づけられます。
「数字で測れない感受性や、見えない世界への直観力、想像力」は、表舞台から押し出されます。
教育の中には暗黙の前提があります。
それは、「三次元以外は存在しない」という前提です。
3次元以外は存在しないという教育を押し付けられ、
結果、若い世代は「外の次元を感じる回路」を育てにくくなり、
教育のシステム自体が三次元的な評価ループを再生産していきます。排除の構造を固定化します。
三次元的な知性だけが磨かれ、ソクラテスの様な「三次元を越える知」は差別されます。
3次元以外は存在しないという前提から離れることは、なかなか許されません。
語ることのリスク
さらに問題なのは、学校などで「三次元以外」を口にすること自体がリスクになることです。
「こんな夢を見た」「異次元を体験した」「祈りで心が救われた」「お化けや天使と話した」と語れば、
「子どもっぽい」「気持ち悪い」「科学的じゃない」「気が狂っている」「バカみたい」と軽蔑の対象にされやすい。
教師でさえ、そのような話を公にはできません。
それをすれば「教育者としての信頼」を失う危険もあるからです。
こうして、教育の世界では三次元の枠からはみ出すことを語れない文化が強化されていきます。
固定化される排除
この構造は、単なる個人の偏見ではなく、教育の制度としての排除の固定化です。
「3次元の方法や枠組みで、測れないものは存在しない」という価値観を次の世代に植え付け、
それを当たり前として再生産していく。
結果として、三次元絶対主義が教育を通じて社会全体に深く根を下ろしていくのです。
その様な構造を語り、問題化すること自体が、軽蔑の対象になります。
信教の自由と教育──「法の上の自由」と「実際の周波数」
日本では学校は、中立を掲げつつも、実際には三次元の枠だけを教え、
三次元以外に触れることを避ける傾向が強い。
ときに、瞑想・夢・恍惚・スピリチャル体験といった別帯域の話題は、冗談や軽蔑の対象にもなる。
そこでは、信教の自由(宗教の自由)、信じる自由が名目としてはあっても、
周波数の自由(意識の帯域を開き・経験し・語る自由)は実効性を大きく欠く。
6. 職場
三次元絶対主義の内側では、職業は「三次元の枠の中で役立つこと」に閉じるものとして想定されます。
3次元の中にいることが、プロらしさの条件とされ、
その枠からはみ出すものは、たちまち「怪しい」「非科学的」「非専門的」と見なされてしまうのです。
つまり、実際には三次元以外に広がっている膨大な領域──
直観やインスピレーション、深い沈黙の知、魂の成熟や霊的な洞察──に触れないことが、
逆に「職業人としての信頼性」や「社会人としての常識」になってしまいます。
こうして職業世界は、三次元の中で完結することが“安全”で“正しい”とされる小宇宙になり、
外の次元に触れる営みは、専門性を失うリスクと見なされる。
この構造が、三次元絶対主義を社会にさらに深く固定しているのです。
3次元の外側に広がる、膨大な領域にたずさわる職業は、とても成立しにくく、
占いや、サイキックという形で、細々と生き延びるだけになります。
7. メディア
メディアの世界でも、三次元絶対主義は深く根を張っています。
新聞やテレビ、ネットニュースは、「三次元に閉じこもった世界観の中で報道すること」こそが信頼性の証とされてきました。
三次元に閉じた報道
社会問題も経済も事件も、すべて三次元の内側で完結するものとして編集されます。
3次元以外のことを扱うのは、メディアでの自分の立場を傷つけることにもつながります。
そのため、扱われるニュースは「数字で測れること」「物理的に確認できること」「統計で裏づけできること」に集中します。
視聴率、クリック数、再生回数といった数値化できる成果が、メディアの評価軸です。
三次元以外は「オカルト」扱い
一方で、三次元を越えるような話題──臨死体験や霊的な直観、魂の成長や異次元の感覚など──は、
正面から取り上げられることはほとんどありません。
もし扱われても、それは「オカルト」「不思議ネタ」「都市伝説」といったラベルを貼られ、
面白半分の娯楽として消費されることも多くなります。
そこには「真剣に語るに値しない」という前提が隠れています。
語ることのリスク
ジャーナリストや評論家が、三次元外の体験や直観に触れれば、
「非科学的だ」「信頼性を欠く」と批判されやすくなります。
逆に「三次元の内側だけで語る」ことが、専門性や誠実さの証拠として扱われるのです。
このため、メディア関係者は自然と「語れない領域」を避けるようになり、
その沈黙がさらに「三次元以外は存在しない」という常識を強化していきます。
常識の固定化
こうして、報道・広告・番組制作のすべてが「三次元だけの話題」に収斂し、
社会全体の想像力もその枠内に固定されていきます。
異次元や魂の物語は、真剣に語れば嘲笑され、軽く扱えば娯楽に消費される。
三次元だけを“現実”とする前提が、メディアを通して社会に繰り返し流し込まれているのです。
メディアもまた、三次元的な価値観を社会全体に流し込み、
人々の感覚を三次元に固定化していきます。
8. 宗教 ─ 三次元絶対主義による変容
本来、宗教は「三次元を超えるための方法論」が中核でした。(仏教の解脱や悟り、キリスト教の観想・神秘主義、イスラームのスーフィズム、ヒンドゥー教のヨーガ等。)
瞑想・祈り・儀礼・神秘体験は、人間の知覚や意識を三次元の枠の外へ開き、別の次元や意識状態へ接続する技法でした。
(ただし、宗教には、倫理・共同体維持や秩序・通過儀礼・個人や国のアイデンティティなど、脱三次元以外の役割もあります。)
ところが、近代以降の世俗化の中で、宗教は「公共圏で生き残る」ために三次元絶対主義を内在化させていきます。
3次元の超越を語るよりも、「身体に良い」「心を落ち着ける」「社会に役立つ」といった
三次元的な方向性や感性にに翻訳され、生き残って来たのです。
禅を例にすると
禅の核心は、言葉を超えた「無」や「空」の直接的な体験にありました。
3次元の状態をはるかに超えるものを目指す、スケールの大きな方法論でした。
しかし現代の禅やマインドフルネスは、「ストレス軽減」や「集中力向上」「ビジネスライフの効率をあげる」技法として、紹介されることが多い。
これは確かに現代社会に適応する形であり、とても有用なのですが、三次元の枠の中に回収された禅とも言えます。
瞑想アプリに搭載される「呼吸法」としての禅は、もはや「三次元の向こう側を開く実践」ではなく、
三次元を上手く生き抜くための方法や、3次元の中での生活の便利な道具に変質している面もあります。
それでも古典と修行の核心には、三次元の向こう側を指し示す火がまだ残っている。
(古典(祖録・語録)に散在する“3次元の枠の外”への指向性。
公案・止観・只管打坐に潜む言葉を超えた、語りえぬ層(沈黙の知)など。
必要なのは、その火を再び前面に出すこと。)
宗教こそが最も影響を受けた領域かもしれない?
政治・教育・メディアが三次元絶対主義に支配されるのと同じく、いやそれ以上に、宗教は大きな影響を受けました。
なぜなら宗教は本来、「三次元絶対主義」とは真逆の役割──すなわち「三次元を相対化し、向こう側を開く営み」だったからです。
宗教がその役割を果たすことを封じられた結果、
宗教は「三次元の中で役立つもの」へと形を変え、
宗教的超越の語り(彼岸・空・涅槃)を避け、ストレスや人間関係の対処の技法へ。
ここで「あくまで3次元を中心に」「三次元だけ」(3次元絶対主義)が、宗教によっても強化されていきます。
宗教でさえもが、社会や文化の中で、上手く生き残るしかなかったとも言えるのではないかと思います。
9. プライベートな生活の中で: 世俗化理論との違い
三次元絶対主義の影響は、教育・職業・医療・メディア・政治の全面に広がる。
だがその震央は制度ではなく、私たち一人ひとりの意識状態にある。
まるでラジオの周波数が、見えない手で固定されるように、意識の可聴域がβ的覚醒・外向き集中へと狭められ、
脳波でするならば、α/θ/δ/γにまたがる多様なモードが、「役に立たない」「語るに足りない」として自動的に減衰させられていく。
しかもその調律は常識に擬装されるため、私的領域でさえ気づきにくい。
近代の世俗化や、世俗化について理論は、宗教を私的領域へ押し戻し、世界を“此岸の枠(イマネント・フレーム)”へ整えてきた。
世俗化は、世界を3次元にフォーカス化し、宗教を主にプライベート、わたくしごと(私事)へと押し込めた歴史のプロセスである。
世俗化理論が語るのは、主に「宗教」の配置転換だが、三次元絶対主義は認識や方法の基準の独占であり、それのイデオロギー性である。
私的領域そのものが“三次元の物差し”で警備され、非三次元的な感性・知・経験が“家庭内”や“友人間”でさえ嘲笑・抑圧の対象になる。
僕が“三次元絶対主義”と呼ぶのは、その枠を知の唯一の定規として制度に埋め込み、五感を超える意識や経験を方法の外に置く支配的な体制である。
脱3次元の体験や話題は、そもそも積極的に“語るべきこと”と見なされない。
3次元を語ることを「避ける」ことを見えない形ですすめられ、自分でも喜んで従うようになってしまう。
10. 全体像
このように、教育・職場・メディアなどの様々な場面で、
「三次元しかない」という前提を土台に動き、
互いにそれを強化し合っています。
社会全体が三次元の回転装置のように回り続け、
五感を超える経験を語る人は、嘲笑・劣位化・排除の対象になり
その中に生きる私たちは、気づかぬうちに「外の次元」を忘れてしまう。
これが、私が呼ぶところの “常識化の暴力” です。
* 世代を超える設計:
義務教育→入試→資格→採用→昇進→広報→報道…と、
人生の通路の多くが三次元的な基準や評価と計測でつながっている。
* “安全/信頼”の定義が三次元に依拠:
第三者が五感+機器で確認できること = 安全・無難。 これの外側は炎上/信頼失墜リスクと結びつく。
11. 科学を否定しない
誤解してほしくないのは、科学や測定を否定していないことです。
否定するどころか、現代科学の発展や恩恵には目を見張るばかりです。
3次元の問題を3次元の中で解決することには、大変優れています。
そして、人文の世界の学問による知的な研究も、大変な成果をあげています。
否定の余地はありません。
問題は、3次元上の原理や道具を、唯一の現実原理に格上げし、他の基準を原理的に無効化することです。
最先端の顕微鏡は偉大であるが、だが愛は顕微鏡では見えない。
それでも愛は、人生の中心に実在する。
まとめ
三次元絶対主義とは、宇宙のごく一部(3次元とその意識状態)だけを「宇宙の全体だ」と言い張る体制です。
「五感で捉えられるものだけが現実だ。なぜなら現実とは五感で捉えられるものだから。」
このロジックは、まさに トートロジー(同語反復) に陥っています。
外部の基準をもたず、自分自身の物差しだけを根拠にする自己正当化のループです。
この状態では、その物差しそのものが妥当かどうかを検証する方法は、最初から排除されています。
つまり「正しいかどうか」を確かめる扉が閉ざされている。
比喩を使うなら──
これは 「日本から一歩も出ずに、日本以外は存在しない」と信じ込むのと同じです。
国内の地図だけを広げて「これが世界地図だ」と言い張るようなものです。
すると当然、海の向こうにある文化も、景色も、人々の暮らしも、調査する必要もなくなり、存在しないことにされてしまう。
しかし本当は、世界はもっと厚みを持ち、広がりを抱えています。
これは単なる思い込みではなく、三次元を絶対化するイデオロギーとして現代社会を支配しています。
教育・職業・メディア・医療・政治──あらゆる制度に入り込み、
「三次元以外を語らないこと」が常識であり、知的で、信頼性であり、安全だとされる世界を作り出しているのです。
私がいちばん伝えたいのは、これです。
私たち一人ひとりの意識状態が、社会や教育により、気づかれないまま狭められ、コントールされている。
まるで見えない手でラジオのダイヤルが固定されているように、β的な覚醒・外向き集中の帯域に合わせられ、
別の周波数が絞ら無効化されてしまう。
しかも、それが当然の“常識”として行われるから、私たちは普段ほとんど気づけない。
私はこれを“三次元絶対主義”と呼ぶ。
それは単なる意見ではなく、意識の周波数を管理するイデオロギーだ。
この体制の下では、三次元的な普段の意識状態だけが「存在する・正しい・役に立つ」とされ、
そこから外れる状態は「非科学」「怪しい」と扱われ、語ることすら難しくなる。
けれど、人間の意識は本来もっと広く、厚く、遠くまで届く。
だれもが、もっと多彩な帯域を経験できるはずのもの。
3次元に縛り付けられているから、苦しい。
三次元の意識モード“だけ”を標準とする社会では、
この3次元という重たい波動の世界だけで生きなければいけない。
これは「苦」である。苦しみである。
だから私は言いたい。目を覚まそう。
普段のの周波数から一度離れ、
沈黙に触れる時間、身体のうちに沈む時間、夢や直観を記す時間、
自然・芸術・祈り・瞑想の別帯域に自分を開いてみよう。
科学を敵に回す必要はない。
私たちの共同体の中に多様な周波数で語ってよい場をつくる。
多重的な周波数を取り戻すことは、生きる苦しさをほどくことに直結する。
見えないダイヤルを、自分たちの手で回し直すときだ。