マインドフルネスとは? 本当のマインドフルネスが存在する     (YouTube動画付き)

マインドフルネスとは? 本当のマインドフルネス(気づき)が宇宙にはすでに存在する

マインドフルネスとは、簡単に言えば、「気づき・アウェアネス」についてで、一般的には「今起こっていることに気が付くこと」です。

 

例えば、「今に注意を向け、今ここに気づいている事」や「開かれた態度で、決めつけをしない事」を指します。

 

具体的には「今感じる首の張りや、足の筋肉の疲れに気が付くこと」「今聞こえる車の音に、ちゃんと気が付いていること」

 

また「今自分が何をしているのかに気が付き・受け入れている事」

 

例えば「今自分を激しく責めている事に気づき、それを判断なしに受け入れること」などです。

 

マインドフルネスの定義は、だいたいこのような定義だと思いますが、ここに問題が内包しています。

 

なぜならば、この様な定義にもかかわらず、この「気づき」という事についていえば、

 

「本当の気づき」が、すでに宇宙には存在するのです。

 

普段考えるようなマインドフルネスと別に、本当の気づき・マインドフルネスが、すでに実在していてしまっているのです。

 

これが反映されず、一般的なマインドフルネスは、部分的な特殊なマインドフルネスを追求してしまっています。

 

本当のマインドフルネスとは 深遠なる宇宙的な気づき (絶対無)

「深遠なる気づき」、「常識を遥かに超えた物凄い気づき」が、すでに宇宙に存在しています。

 

そして、もともと「気づき」とは、どんな種類の、何時の気づきであれ、誰の気づきであれ、本当は一つしかないのです。

 

それは、その「常識を遥かに超えた物凄い気づき」が、存在する唯一の気づきです。 (絶対無)

 

ですから、現在のマインドフルネスであっても、何に気がついても、何についてアウェアー(意識)しても、

 

結局は、その「本当の気づき」しか起きようがない、気づきようがないのです。 (絶対無が起きるだけ)

 

なぜならば、宇宙に唯一存在している存在は、この「気づき」だけしか、他に何も存在しません

 

だから当然、「気づき」とは言っても、この宇宙には、この「本当の気づき」しか、実は存在しないことになります。

 

だから、何について気が付こうと、同じ気づきしかありえません。

* また、いつ気が付こうと、昨日の気づでも、あさっての気づきでも、唯一存在する存在が起こっているだけ。

* すなわち、同じ究極的な気づきが存在するだけです。

 

たとえ自分の体の状態についての気づきでも、自分に今聞こえてくる物音の気づきでも、同じこと。

 

唯一存在する存在、すなわち、唯一の気づきが、ただ起こっているだけです。

気づき、存在などと言っても、冷たく冷淡で、無機質な気づきなのではなありません。

 

愛そのもの、エクスタシー・快楽そのもの。それが気づきなのです。気付きとは、愛の事。 深遠な愛の気づきです。

 

普段生きている生活世界。その表層の奥の奥にある、表層を成立させているもの。それが気づきという唯一の実在です。

 

マインドフルネスと言う言葉が、「気づき」についてである以上、「気付きとは、本当は何か?」という問いから逃れられません。

もしマインドフルネスを、他の言葉で訳すとすると、「自覚する」という言葉も良いかと思います。

 

例えば、今自分に起こっているお腹の痛みを、きちんと「自覚する」という具合にです。

 

それにしても同じことで、「自覚」という事で言えば、

 

宇宙の深層には、「本当に全てを自覚している」・「全てに目覚めている」存在があります。

 

マインドフルネスの「マインド」とは?

マインドフルネスと言うときの、その「マインド」(心・意識) についても、同じことが言えます。

 

マインドフルネスの「マインド」とは、本当はどういうマインドなのでしょうか? 本当のマインドとはなんでしょうか?

 

又マインドフルネスと言っても、本当のマインドにおけるマインドフルネスとは何でしょうか?

 

「マインド・心」には、究極的な心、普通の心ではなく、「本当の心」が存在します。

 

普段考えるような、Aさんの心・マインドとか、Bさんの心というのではなく、

 

それを遥かに超えた「本当のマインド」しか、本当は存在しえません

 

そもそも、存在するのは、宇宙の何処に行っても、このマインド以外には、存在しないのです。

ですから、もっと言えば「本当の宇宙」とは、この本当のマインド(心・意識)のこと、究極的な宇宙意識です。

* 宇宙とは、物理的な星や空間などではなく、このマインドのことです。

 

ですから、普段の心で気づくのではなく、究極的な心・本当の意識で気づくこと、これが本当のマインドフルネスです。

 

「マインド」と「気づき」は、全く同じこと

マインドフルネスは、一般的な意味ではXXXさんが「何かについて」気づいている事」です。

 

例えば、Bさんが、目の前に見える、高いビルの大きな窓(を見ている事)に気づいている、という様な事です。

 

ではその場合、一体本当は、何について、気が付いているのでしょうか?

 

その本当のマインド・心が、気づくことは、それも一つの事しか気が付きようがありません。

 

なぜなら、「本当のマインド」と、「本当の気づき」は、全く同じものだからです。

 

普通は「XXさんのマインドが、YYYYについて気づいている」という具合に、

 

主体(XXさんのマインド)と客体(YYY)が分かれて分裂しています。 (主客分裂)

 

本当のマインドについていえば、気づきの内容についていえば、こういう分裂が起きません。 (主客同一)

 

「存在している」ことが、即そのまま、「気づいている」ことです。

 

「何に」気づいているかと言うと、全ての全ての本当の姿について、常に目覚めている・完璧に気づいているのです。

 

それは、唯一存在する、自分自身(絶対無)について目覚めているのです。

 

西田哲学で言う、「絶対無」が自分自身を「自覚」しているのです。 (脱対象的な認識・気づき)

 

「本当のマインドフルネス」しか、もともと存在しえない

ですから、唯一本当の事実に気づいている本当のマインドが存在するだけですから、

 

それについて、完璧に常に完全に気が付いてマインドフルになっていることが、本当のマインドフルネスです。

 

また、これ以外の気づきが、実はありえないという意味で、これしかありえないマインドフルネスです。

 

これ以外の気づきもなければ、これ以外の何の存在も存在しない以上

 

唯一存在するマインドフルネスは、この本当のマインドフルネスだけです

今のマインドフルネスに、もう少し「マインドフル」になる必要

ですから、一般的なマインドフルネスの定義の問題点は、その定義以前に、その定義とはずれている真正なマインドフルネスが、

 

既に実存していまっていて、それが一般的に知られていない事です。

 

そしてその本当のマインドフルネスではない、もっと手前のマインドフルネスが、広く一人歩きしてしまっている事です

 

もしここで、少し違った詳しいマインドフルネスの定義を採用しても、同じ問題に直面します。

 

例えば、「マインドフルネスとは、開放的で執着のないとらわれない心の状態」と定義しても、又その代わりに、

 

「今の現実に常に注意を向けて、それをあるがままに知覚して、それについての思考や気持ちにとらわれない状態」だと定義します。

 

しかし、執着しようが、どんな状態であるにしても、何についてとらわれないとしても、すべては、

 

唯一存在する状態、すなわち、唯一存在する存在が、自分に完璧に気づき既に目覚めている。

 

という根本の根本が起き続けているだけです。

 

だから、どんな定義であるとしても、同じ結論になります。

 

さらに他の定義ではどうなるか

代わりに、「今ココ目の前に起きている事だけに集中すること」と、マインドフルネスを定義したとします。

 

それにしても、目の前でも、宇宙の果てでも、起きている事は、唯一絶対の事実(絶対無)しか起きません。

 

ですから、やはり同じ結果になります。

 

集中していようがいまいが、関係ありません。目の前だろうが、ずっと向こうだろうが、無関係です。

 

もし「観察」という言葉を、マインドフルネスの定義の中心に持ってきても同じこと。

 

観察できていようが、いまいが、何を観察し意識していても、観察し意識できている事は、

 

本当は同じ一つの事(絶対無)しかありえません。

 

さらに「受け入れる・判断しない」を、定義の中心にしても、全く同じです。

 

まったく判断していない、気づきであり目覚めである、純粋な愛が存在し得るだけです。

 

この気づき・愛は、判断から完全に離れていいますので、判断せず、そしてただ愛として全てを「受け入れて」います。

 

この「受け入れている」もの、その状態・意識しか、宇宙には存在しないし、それが本当の宇宙です。

 

本当の気づきは「無意味」である

この本当の気づきには、「意味」がありません。 全くの「無意味」です。

 

そして、この無意味が、そのままで愛なのです。

 

そのまま、無意味のまま、すなわち、意味をすべて超えたまま、それがそのままで、究極の幸せで慶びなのです。

 

ですからマインドフルネスの定義に、普段頻出する様な中心的な言葉、

 

例えば、気づき・アウェアネス・観察・受け入れる・判断しないなど、どれをとっても、

 

「本当の気づき」に、すでに向かっている様な、関係の深い言葉ばかりなのです。

 

深遠な実在から、呼ばれ規定され、運命づけられているのです。

 

たとえ、一般的なマインドフルネスが、入り口限定の、「入門的」な入門編だけを扱うとしても、同じことです。

 

 

<今までのまとめ>

* 唯一の実在、絶対無が、既に存在し・気づいている。

* そして、その気づき・絶対無が、自分自身(絶対無)を気づいている。

* この「唯一の気づき」は、常に何処でも存在し、常に目覚め・気づき続けてる。

 

* よく言われるマインドフルネスとは「今起こっていることに気が付くこと」。

* 例えば、今感じる首の張りや、足の筋肉の疲れに気が付くことなど。

* しかし「マインドフルネス」という言葉の意味が、XXXを気づいているという意味なので、「気づき」や「マインド」という言葉を定義に含んでいる以上、「気づくとは何か」「気付きとは何か」「心とはなにか」という問いを避けられず、密接に関係してしまう。

* その上「本当の気づき」「本当の心」が存在している以上、その本当の気づきに、方向性を更に規定されてる。

* マインドフルネスが深くなるほど、本格化するほど、そちらの方向へと自然に向かう事になる。

 

ここまでの内容はYoutubeでも説明しています:

多次元マインドフルネスとは

マインドフルネスについて、もう一つ重要な点があります。

 

それは、一般的なマインドフルネスの定義は、「今XXに気が付いていること」ですが、

 

人間のマインドが気が付けるのは、この3次元についてだけではありません。

 

実際宇宙には無数の次元があり、重なり合って存在しています。

 

ですから、気がつくことができるのは、高い次元の様々な事にも、気が付けてしまいます。

 

本来の人間のマインドの可能性を狭めないためには、これはとても大切な点です。

 

本当の人間の姿に「気がづく」為に、深い現実世界に「気が付く」・アウエアーする為に、

 

普段の意識から離れ、それを破り、多元的な深い宇宙に「気がつく」必要があります。

 

毎日のマインドフルネスから、時々離れる必要

様々な日常生活のストレスの中でも、普段我々は、たくましく生きています。

 

様々なストレスだけではなく、この様な色々な事についての、マインドフルネスの効果や貢献が、

 

研究結果としてこの10年ぐらいで、明らかにされて来ています。

 

日頃の生活の幸福度を上げたり、仕事のパフォーマンスを向上したりと。。。。

 

マインドフルネスで、自分の状態をオープンに観察し気づき、日常の生活を、様々に改善する。。。

 

しかし、その「毎日」が、表面の表層に過ぎず、

 

もっともっと深い現実に「気づく」・目覚める必要性があるとすれば、どうなのでしょうか?

 

表層の現実で、いくら幸福であり又いくら貢献しても、それはまだ、小さな表層の中での出来事。

 

表面の上に拘束されて、ある意味、いつの間にかそこにしがみついている事には、変わりません。

 

全ての人間に体験されるべき、深い現実を無視することは、大きな目から見ると大問題。

 

現在よく行われている様な、今ここの自分の身体感覚ばかりに集中するマインドフルネスだけでは、

 

既に狭い世界に閉じ込められて苦しんでいる現代人を、閉じ込め続ける事になりかねません。

 

この普段の3次元世界に閉じ込められることが、「苦しいこと」なのです。

 

なぜならば、この世界自体が、全体的に波動がかなり低く重く、ここにいる事はそれだけで「苦しい」と感じる場所であり、

 

そしてまた、ここは不安定で、様々な悩みやマイナスな出来事が、起こり続けてしまう場所なのですから。

 

異次元を証明できるか?

しかし果たして、「多次元マインドフルネス」でふれた、無数に存在する異次元とは、現代の自然科学で証明できるのかと、

 

そんな高い次元や、本当の気づき(絶対無)を、「証明」できるのか?という質問が聞こえてきそうですが、

 

基本的には、全く無理(に近い)です。

 

ただし、かなり間接的に、もしくは境界線あたりの事は、部分的にある程度可能です。

 

証明できるかという質問は、おそらく大概は、自然科学で証明できるのか?という事であると思いますが、

 

異次元の存在自体は、異次元にしか存在しません。当たり前です。

 

3次元に異次元はそのまま持ち込めない。

 

出来るのは、3次元の形式に一度直してから、数式などで間接的に推測するだけ。

 

すなわちその影だけが少し見えるだけ

 

では異次元の中で、自然科学は役に立つのでしょうか?

 

自然科学で証明しようとする場合、異次元の中では、どのように証明できるのでしょうか?

 

それは、3次元の物質がなくなったら、今の3次元の物質科学がつかえますか。。。ということになります。

 

異次元では、実験道具も、実験室もなくなり、実験するコンピューターも、今までのデーターも、実験する仲間もなくなり。。。

 

3次元を抜けたそんな状況で、どうやって自然科学が、役に立つのでしょうか?

 

実験する事さえできません。

 

ですから、異次元から一度出て、3次元に入ってから、あくまで3次元の環境の中で、3次元として証明するだけ。

 

数式やグラフなとは、数式やグラフに過ぎず、4次元そのものではないです。3次元の上でのデータでしかないのです。

 

直接証明したことになりません。影を見せられるだけ。

魚の様に海の中の世界に入ってしまえば、陸の世界はもうありません。

 

それが、異次元という事ですから。 それ以上でも以下でもない。

 

しかし異次元が、3次元のなかでは存在できないからといって、異次元がないという事ではないのです。

 

魚が住む海の中には、陸の上の世界は、ないだけの事です。

高い次元を体験できるには、直接に自分で体験する以外に、本格的に理解する方法は、

 

自分で3次元意識と言う、普段の意識を捨てて、破っていく以外にないのです。

 

自分の意識の状態を変える事が必要になるのです。

 

ではそれは、簡単にできるのか?

 

いや、簡単ではありません。かなり難しいです。

 

とくに子供のころから、3次元主義に浸ってしまっている、我々現代人にとっては、かなり難しいです。

 

一部の例外、生まれつき体験しやすい人は、存在しますが、普通はかなり難しい。

 

その為には、精神的な成長、意識の成長が必要です。

 

ですから、自分がマインドフルになれる範囲を広げていく。

 

マインドフルネスがそのための、準備として、入り口への招待状として機能する事を、期待しています。

 

この3次元しかないという前提に、マインドフルになる。

 

普段のこの3次元の意識しか「信用できない」、もしくはそれが「中心・基準である」という前提に、マインドフルになる。

 

現在のマインドフルネスの方向性に、マインドフルになる。

 

もし、マインドフルネスが、開かれた態度で存在しつつける事、決めつけない事、どんなことも受け入れる事ならば、

 

それがさらなる目覚めにつながることを願っています。