🌸マインドフルネス2.0(第3部):「愛を流す瞑想」の哲学と実践 愛を流す新しいマインドフルネス

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🌕  マインドフルネス2.0 ―― 気づきと愛の融合

マインドフルネスが「気づく力」だとすれば、
愛を流すことは「やわらぐ力」。
この二つが重なると、
心は静けさと温もりを同時に取り戻しやすくなる。

観察がよりスムーズになる。

なぜなら、愛という安心がないところでは、人間は自分にしがみつき、自分の思考や感情にこだわってしまう。

もちろん、愛を流しても、すぐに三次元意識を抜けられるわけではない

しかし。。。「観察」が“冷静に見つめる行為”ではなく“抱擁”に変わります。

―愛を流すたびに、
ほんの少しずつだが、三次元意識の硬さがほどけていく。

本来の観察とは、愛が愛を見つめること
本来の気づきとは、愛が自分を思い出す運動

だから――
観察することと、愛を流すことは、同じ運動の異なる側面

怒りも、不安も、悲しみも、
そのすべてを愛の流れに戻していく時間。
それが「マインドフルネス2.0:愛を流す気づきの実践」。

🌿  「受動的な優しさ」と「能動的な愛を流す」の違い

Jack Kornfield や Sharon Salzberg が説く「思いやりの気づき」は、冷たい観察とは一線を画しています。

Jack Kornfield たちは、「優しい注意」や「温かい気づき」という言葉をよく使います。
これは、自分の内側を“やさしく見守る”ような優しい愛の姿勢を意味しています。

しかし根本は、「何も足さずに、ただ優しく見てあげよう」という“受け身のやさしさ”です。

実践では、たとえば、

「悲しみがあるね」
「怒りがあるね」
と、そっと見つめてあげる感じ。

これはとても大切で、心を落ち着ける効果があります。

でも、ここでの「愛を流す」は、もう少し歩み出て「能動的」になる。

だから、見守るだけでなく、“自分からぬくもりを送り出す”動きです。

たとえば、

「悲しみよ、ここに愛を送るよ」
「この怒りをやさしく包んであげよう」
というように、愛の波動を“流していく”。

つまり、

  • Kornfield流: 主に受け入れる・見守る(受動的)

  • ここで提しているのは: 始めから積極的に包み込む・どんどん温める(能動的)

どちらも大切です.

新しくここで提案しているのは、より体感的で、実際に“ぬくもり”を感じやすい方向です。
言い換えると、「観察の姿勢」よりも「宇宙の存在のエネルギー」そのものを動かす実践

🌿  「観察」では届かない場所

たしかに、観察する力が育つと、
私たちは思考や評価の渦から一歩離れられるようになります。


怒っている自分がいる」「悲しみがある」と、
ある程度は冷静に見つめることができるようになる。

マインドフルネスの第一歩としてとても素晴らしいことです。

けれど――
それだけでは、まだ“現象という表層”にとどまっている。

たしかに、評価や意見という「言葉の世界」からは少し自由になれます。


「良い・悪い」「成功・失敗」といった判断が静まり
心の中に安らぎの空間が生まれる。

でも。。。。自分の「決めつけ」や「自我のフィルター」が静まっても、
その静けさの奥にある“根本の愛”や“存在の光”とはつながりません

なぜなら、観察の主体――「観察している私」――がまだまだ残っているからです。


観察することによって、自我の視点は一時的に後ろに下がりますが、
それでもまだまだ、「見ている私」と「見られている対象・自分の思考」が大きく分かれている。

観察している「私」が、まだ普段の“自分意識”のままだからです。

私たちは思考の渦から少し距離を取れるようになれても。。。
しかしその「距離を取っている私」自体が、
まだ分離した自我として、存在しています

つまり、その分離のまなざしの中では、
たとえ思考を静めても、
根源の存在そのもの、“愛という存在の全体性”には全然届かないのです。

つまり、そこではまだダルマ(宇宙意識)が自分を観察しているのではなく、
あくまで人間的な私が、自分を見ようとしている
段階なのです。

そのため、観察にはかなりの“努力”が伴い、
静けさの中にもわずかな緊張が残る。 
見る者と見られる者のあいだに、目に見えない壁がまだある。

いくら観察しようとしても、すぐに、思考の波に流される。

なぜならば、まだ普段の自分として観察しているのだから。

けれど――
本来の観察とは、
「私が思考・感情を見ている」のではなく、
宇宙意識(ダルマそのもの)が、私という形を通して自らを見ている状態です。

そこでは、「観察」も「観察者」も存在しない。
ただ、意識が意識を照らしているだけ

愛が、愛を感じている。
存在が、存在を自覚している。

 

🌸  なぜ「愛を先に流す」のか ―― ゴールから出発する

なぜ、観察の前に(同時に)愛を流すのか。
それは、「最終目的(絶対愛と安心)から出発する」という指向性にあります。

最終地点(光・愛)を先に“模倣”することで、
旅全体がその波動に導かれていく。

通常のマインドフルネスは、
今の自分の状態から出発し、
少しずつ心を整え、いつか愛や安らぎにたどり着こうとします。

けれど、もし“愛”こそが本来の目的地であるなら、
その波動を最初に呼び込んでしまうほうが自然ではないでしょうか。

Jack Kornfield や Sharon Salzberg が説く「気づき」「観察」は、
仏教的伝統(特に上座部のサティ=念)に忠実で、
キーワードは “as it is(あるがままに)” です。

仏教においては、苦しみ(dukkha)の根は「思考による分別」「操作」「抵抗」にあります。


つまり、現実に「何かを加えよう」「変えよう」「避けよう」とする心の働きが、
苦しみを生み出すという理解です。

 しかし。。。本当の「あるがままに」は、「全てが愛」。

「愛しなかない」宇宙意識のダルマの状態が、本当の「あるがまま」

ところが。。。。

一般的に「あるがままに見る(as it is)」と言うと、
「感情や思考を否定せず、評価せずにそのまま見る」という意味に取られます。


それはとても大切な第一歩ですが、まだ現象という“表層”を「そのまま」見ている段階です。

多くの実践者が「あるがまま=受け入れること」と解釈していますが、
本来の「あるがまま(タタター・如如)」とは、
“現象を現象として見ているだけの状態”ではない。

「現象レベルのあるがまま」は、
マトリックス(仮想現実)の中で「これが真実だ」「現象世界しか存在しない」と言っているようなものです。

現象レベルで“あるがまま”を受け入れることは、
 自分を現象に縛りつけることにつながり、
 「凡夫の視点」を固定してしまう。

3次元の上での、「今ここ」に、さらに自分を縛り付けるという、

本来は避けるべきマインドフルネスに陥る可能性もある。

すぐに変化しない

たしかに、どんなに愛を流しても、
すぐにすべてがワンネスに溶けるわけではありません。

しかし、愛を流すという行為は、
「永遠の愛の流れを思い出すための再接続の練習」です。

愛を“想起する訓練”であり、
愛の波動を“感じ直すリハビリ”です。

それは一瞬で悟るための魔法ではなく、
愛を流しながら、自我を段々とやさしく溶かしていく道。

それは、忘れていた旋律をもう一度思い出すような、
とても静かなプロセス。

観察が冷たい光なら、
愛を積極的に流すことは、
その光に“温度”を取り戻すこと。

愛を流すたびに、
私たちは少しずつ、“愛でできている存在”としての自分を思い出していく。

それが、
マインドフルネスを超えた――
マインドフルネス2.0:愛の記憶を取り戻す実践です。

段々と、「観察」も「愛」も区別が薄くなり。。。。
愛そのものが“自己を思い出している”方向に。

哲学的に言えば――

愛とは“存在が自己を知る運動”であり、
私たちが愛を流すとは、
存在が自らを再び感じはじめること。

西田幾多郎が『自己とは自己を照らすもの』と話したように、
愛もまた、自己を照らす光のはたらきです。

 


🌞 結び: 観察の冷たさを、愛のぬくもりで溶かす

現代マインドフルネスや心理的「今ここ」の実践は、
確かに多くの人を苦しみから救い、
ストレス社会に癒しをもたらしました。

しかし同時に、
“三次元意識の範囲で完結している”という盲点があります。

「気づくだけでは、分離した意識が観察しているにすぎない。」
「本当の観察は、愛が愛を見つめるときに起こる。」

観察だけでは、距離が生まれる。
愛を流すと、その距離がやさしさに変わる。

マインドフルネス2.0とは、
静かに気づきながら、同時に抱きしめる」実践。

気づくだけでなく、
あたたかく包みながら”気づくこと。

それが、
思考と感情を超えて、
“本当の自分”に還る道です。

愛=存在の自己認識

観察が冷たい氷なら、
愛はその氷を溶かす陽の光。

気づきの中に、あたたかさを。
沈黙の中に、愛の流れを

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