自分の願いを叶えたいの本当か? 自分の願いを離れてみるとどうなるのか Youtube動画:5分間瞑想で満足安心を味わう
<自分の願いを本当に叶えたいのか?> 願いを離れてみるとどうなるのか:自分の世界から離れる大切さ
もっともっと「満足したい、安心したい」と普段から人間は思っていますが、
その為には、普段の自分の世界から少し離れていく習慣を、
瞑想などで作っていくのは、とっても大切です。
日頃はもっと満足するために、「私はこうなりたい」「私はこうしたい」という風に、
人間は様々な願いや思いを持って、毎日生きています。
身近なところで言えば、仕事の計画、金銭的な話や、来年の旅行や週末のプランなど、
普段考える様な、個人的な願いや色々な計画は、沢山あるものですが、
本当は、その様な普段考えるような、個人的な願いを叶えたいのではなく、
逆に、「捨てたい、離れたい」と思っています。
なぜなら、いつも思い浮かぶ「私はこうしたい」という、その普段の「私」のレベルからは卒業したいと思っているからです。
ですから、個人としてこの普段の3次元の上で、「私はなにがしたい」「私はどうなりたい」ではなく、
そういう狭い場所からは、出てしまいたいのが本当の望みなのです。
普段生活しているこの3次元自体が、とても重たい暗い世界です。
この逃れられない特徴があるので、ここでたとえ沢山の願いを叶えても、
その中にしっかりはまっているのですから、そんなに大した事にはなりません。
普段の生活世界からは、ずっとずっと離れている高い場所に行くと、
すなわち、普段の願い・実現したい希望や計画などから、ずっと離れて存在しているからこそ、
のびのびで、ゆるゆるで、
意識が無限に広がった、深い幸せの状態の中で、いつも安らいでいられるわけです。
そこは、永遠の幸せや満足しかありえない世界です。
普段の生活世界から、遥かに離れた場所には、
どれだけの満足や幸せや愛が待っているのか、
たとえ「普段の私」には分からなくても、
自分の中に眠っている「深い大きな大きな私」は、それをすでにとてもよく分かっています。
逆に言えば、普段の「私はなにがしたい」「私はどうなりたい」願いや希望は、
3次元の世界にに自分を縛り付けてしまうという、
縛りであり、重しです。 例えていえば、足枷(あしかせ)を履いているよう。
これを硬い言葉で言えば、普段叶えたいと思っている願いは、3次元への執着へと簡単に転換してしまいます。
(とは言え。。。「人類愛」「世界平和」「宇宙愛」などの高尚な願いもあるので、
全てが全て、離れるべき、捨てるべきものでもない事も確かですが。。。。
ですから、ここで話している、離れたい・捨てたいと思っている願いとは、
そういう高尚で普遍的な願いの話ではなく、普段の現実的世俗的な願い、
普段考える様な個人的な狭い範囲の、願い事です、もちろん。
普遍的な高尚な願いは、逆に狭い世界から開放する力を持っています。
もしそこまでいかなくても、利他的で、脱自己中心的な願いでも同じです。)
何か特定の一つの願いは、他の様々な願いや体験や思い出や、色々な価値観や感情に、複雑に結びついていて、
それらが連関的に結びつきながら、自分を普段の世界に縛り付ける「縛り」として機能しています。
一つの願いは、他の願いや様々な物事に連関して、長い長い「連鎖の一部」として存在しているので、
どれか一つの願いから離れるというよりは、この世界から全体的に離れる事を志向しないと、
なかなか距離を作っていけません。
このエネルギー的な縛りを段々と解いていくには、かなりの時間がかかります。