なぜ異次元が存在しないことになったのか?: 3次元絶対主義とは何か? (全体説明)

はじめに

近代以降の人類は多くの場面で、「三次元だけしか存在しない」という前提を、ほとんど疑うことなく受け入れてきました。

この3次元しか存在しないことが、ごく当たり前である毎日を、現代人の多くは生きています。

しかし異次元は存在しないのではなく、「存在しないことにされた」のです。

普段の三次元の意識状態が、唯一の信用できる基準として絶対化された結果、異次元へのアクセスの手段が組織的に封じ込めらたのです。

 

科学的合理主や実証主義の力は確かに大きな成果をもたらしました。現代的な知的な教育は、様々な発展を生み出してきました。

しかし、その裏側で私たちは「三次元絶対主義」とも呼べる枠組みに閉じ込められてきました。

この立場は、単なる思想や認識論的な見解にとどまらず、社会制度や教育を通じて人々の心に深く浸透し、見えない支配体制として、広く現代社会の中に働いています。

その過程で、実在する膨大な数の異次元や多様な意識状態へのアクセスは、事実上無効化・制限されてきました

さらに、それらを語ろうとする人々は「ナイーブでだまされやすい」と見なされ、差別的な扱いを受けることも少なくありませんでした。

その結果、人間の精神的・存在論的な豊かさは切り縮められ、慢性的な閉塞感や不安を生み出す構造が出来上がってきたのです。

 

この3次元の波動は、重たく不安定で、この3次元に自分を縛ることは、重たく苦しい状態に縛ることになります。

「三次元しかない」という常識。。。

いや本来はありえない非常識が、世界中で強固に作られてしまったのです。

①  定義:三次元絶対主義とは何か

三次元絶対主義とは、「本当に存在する現実は、この物質的な三次元空間しかありえず、唯一信用できる意識の状態は普段の三次元的な意識である」という前提に立ち、

他の次元やそれを可能にする別の意識状態を排除する思考と制度の体制を指します。

しかしこれは単なる哲学的立場ではなく、社会の制度や、毎日の精神状態にまで及ぶ、見えない支配体制でもあります。


普段の「肉体を持つ状態」に対応する「普段の意識の状態」(3次元の中での存在様式)だけが、人間としての唯一の存在の状態もしくは、信用できる状態だとされることで、

人間は「目に見える」世界、「3次元の器具や基準で測れる範囲の存在」に縛られて限定されてしまいます。

その結果、異次元や意識の広がりといった目に見えない世界の可能性が切り捨てられ、
私たちは三次元の枠の中だけで生きるように強いられているのです。

こうした枠組みは、やがて人間に精神的・存在的な貧困や苦しみを生み出します。

②  五感限定:五感だけ主義への偏重

三次元絶対主義を支える第一の柱は、「人間は五感によってしか世界を認識できない」という主張です。

カントをはじめとする近代哲学の主流派では、五感を超える体験を排除し、五感以外の体験は認識の対象にならないという考え方が広く展開され、

人間認識の限界を五感の範囲に閉じ込める考え方が広がっていきました。


しかし、この論理は自己循環的です。

五感を唯一の基準に初めに設定して、五感を通じて確認できないものを「存在しない」と見なすからです

言い換えれば、「五感の外にアクセスしない」ことを前提にしながら、「五感の外は存在しない」と結論づけているのです。


歴史的に見れば、世界各地の文化は夢・瞑想・シャーマニズム・宗教儀礼を通じて

「五感を超える知覚」を探究してきました。

しかし近代西洋以降の文脈では、それらは迷信・錯覚として切り捨てられる傾向が段々と強まり、地球の上に広まって来ました。

③  3次元意識の絶対化=アクセス手段の封じ込み: 自己循環のメカニズム

三次元絶対主義が強固に保たれてきた背景には、もう一つの仕組みがあります。

それは、この3次元の意識を絶対化することで、
三次元を超える層に触れるための手段そのものが、制度的・文化的に封じ込められているということです。

例えば瞑想・変性意識状態・宗教的な神秘体験などは、かつては異次元的な存在や他の意識状態にアクセスする正当な手段でした。

ところが近代以降、こうした方法は「非科学的」「信頼できない」「だまされやすい」として周縁化され、正統な知識の領域から追放されました。


その結果、「異次元は存在しない」と思われがちになります。

けれどそれは、最初からアクセスの方法が無効化・否定され、真剣に探ることすらなかなか許されない構造の中で「確認できない」と言われているにすぎません。

これはつまり、「初めから正当な手段を封じて結論を固定する、自己循環(トートロジー)」です。

3次元絶対主義の根本は、普段の3次元の意識を中心化・絶対化すること: 

* 唯一信用できる意識の状態は普段の三次元的な意識であるので → 多次元を体験する意識状態は「信頼できない」「幻覚である」「使ってはならない」 →  本当に存在する現実は、この物質的な三次元空間しかありえない  

 

こうして、三次元絶対主義は、自らを強化し続ける閉鎖的な排他的なシステムとなってきました。

たとえば、周波数を変える機能を壊されたラジオのようなものです。

最初から他のチャンネルに合わせられない状態にされていれば、「他の放送なんてどこにも流れていない」と思ってしまいます。
でも実際には、聞こえない原因はラジオ(受信機側)の制限であって、放送(シグナル)自体は流れている可能性があります。

あるいは、カーテンを閉め切った部屋で「太陽なんて見たことない。だから光は存在しない」と言うようなものです。
それは、「光がない」のではなく、「光を見ないようにしている」だけかもしれません。

このように、「感じる力」「つながる感性」「アクセスの方法」が社会の色々な場面で、意図的または無意識に閉ざされていると、
本当はそこにあるかもしれない世界を、「ない」「なくて当たり前」と決めつけてしまいやすくなります。

 

実際には、もし他の異次元を、普段の現代人の心身状態から体験できる様になる為には、長いトレーニングが必要になります。

そのトレーニングが信用できない・科学的ではないとされてしまうと、真剣には向き合うことが出来なくなります。

④  制度化:社会の体制としての固定化

三次元絶対主義が単なる考え方ではなく、「社会の前提」になった背景には、制度化の力があります。
それは、学校教育、学術研究、メディア、法律、医療などのあらゆる領域において、
三次元的な世界観が「常識」として刷り込まれ、疑う余地すら与えられないという状態です。

この仕組みの中では、「目に見えること」や、3次元の中で「数値化できること」や、

3次元の枠組みの中で「再現できること」だけが、「本当に存在する」「信頼できる」“本物”とされます。

しかし、ここに大きな落とし穴があります。


魚の住む海の中の世界は、陸上の空気の世界中では、そのまま再現できないように、別次元の世界もまた、三次元の中にそのまま持ち込んで「再現」したり「実験」することは、ほぼ不可能です。 海の中の世界は、陸上の空気の世界とは、基本的な構造が違うので、共存できません。


別次元は、その次元の中で体験されなければならないのであり、「科学」という三次元の枠に閉じ込めて測ろうとすれば、ほとんど「分からない」「存在しない」「確認できない」と結論づけられてしまうのです。サッカーのルールで野球を裁くようなもので、最初から適用ルールの誤りがあります。

そして重要なのは、「別の次元も三次元の方法や基準で再現されなければならない」「科学という3次元の枠組みで証明されなければいけない」という考え自体が、すでに三次元絶対主義の定義そのものをなぞっているということです。

「科学が証明する」のではなく、科学がもう通用しない領域を、3次元の外側を、自分で体験することこそが、唯一の「証明」です。 つまり、三次元の外側は「科学で証明されるもの」ではなく、「実際に自分で体験されるもの」なのです。

科学が通用しない所まで行くことが前提条件であり、科学が運用できる場で証明できるはずがないのです。

 

現代の科学がその物凄い力や実力をを発揮するのは、3次元の内側です。

3次元意識の知性が、その凄さを発揮できるのは、3次元の内側です。

 

カントをはじめとする近代の主流は、理性を五感由来の現象領域に限定しました。

しかし今日必要なのは、理性を三次元専用の道具として尊重しつつも、適材適所の原則を導入し、次元領域に応じて認識手段を切り替える再配置です。

三次元外の現実を、三次元用の規則で裁こうとする——その誤りを改めることこそ、決定的な転換点となります。

 

つまり、3次元絶対主義が正しいかどうかは、実際に自分で3次元の外側を体験する以外にはありません。

 

この点について、ソクラテスも『パイドン』の中でこう語っています。


「われわれは肉体を離れて、魂だけになってはじめて、純粋に真理を把握することができる。」
すなわち、三次元(肉体的世界)の枠内にとどまっている限り、真実の全体には決して触れられないのです。

 

さらに現代社会では、こうした3じげん価値基準が資本主義の論理と密接に結びついています。

三次元絶対主義は、資本主義に組み込まれ、見えない世界を価値が低いものとして扱う仕組みとなっています。

お金になるもの、生産性があるもの、結果が出せるものだけが評価される社会構造のなかで、
「意識の広がり」や「魂の旅」といった内面の世界は、高く評価されることはほとんどありません。

むしろ、資本主義とは矛盾し、なじまないものとして、隅に追いやられ、「かなり特殊な分野」としての位置を与えられます。

⑤  イデオロギー: 思想支配の側面

ここまで見てきたように、三次元絶対主義はただの考え方や、思想ではありません。
それは、現代の地球全体を覆う支配的なイデオロギーです。

イデオロギーとは、「一見中立に見えて、実はある種の権力構造を支える考え方」です。

(社会に「常識」として浸透し、人々が自覚しないうちに思考や行動を方向づけるもの。)

「3次元以外を信じるのは知的ではない」「普段の意識の状態こそが信用できる」「現実とは目に見えるものである」「スピリチュアルな体験や、異次元の話は非科学的で危険だ」


といった見方は、教育やメディア、専門家の言説などを通して当たり前のように広まり、
やがては私たち自身の中に深く染み込んでいきます。

このイデオロギーは、現代的な国家の統治、資本主義経済の発展になじみやすく、社会秩序の維持にも都合がよく、
それゆえに強化され続けてきました。

だからこそ、スピリチュアルな感性や異次元的な知覚は「信用してはいけない」とされ、排除・差別の対象となってきたのです。


三次元絶対主義もまた、人類の意識をある一定の枠内(3次元の意識の状態)に閉じ込めておくことで、
現在の社会の形態と経済の効率性を保っている、非常に巧妙な支配構造だと言えるでしょう。

その結果、「三次元の外にも世界がある」という、あたりまえすぎる常識を表に出すことは、現在の社会ではリスクのあることになっています。

⑥  偏見:スピリチュアルへの差別と否定的まなざし

こうした制度とイデオロギーの影響を受けて、「スピリチュアル」や「異次元」的な話題に対する
強い偏見が社会全体に浸透しています。


「そんなの信じるなんて、非科学的だ」「現実逃避だ」「だまされやすい人間だ」「あやしい」
といった言葉が、何の根拠もなく人々の口から飛び出します。

特にこの偏見は、知識層やエリート層に強く現れる傾向があります。


学者、医師、ジャーナリスト、教育者などの“知的な役割を担う職業”の人々ほど、
「知的であること」「科学的であること」、すなわち、「3次元的であること」がアイデンティティや、職業システムの中心となっているため、
それにそぐわない考え方を強く否定しがちです。

しかしここで忘れてはならないのは、
これは単なる「無知」ではなく、構造的な差別と支配の一部だということです。

人々が、異次元的な視点や霊的な体験を語ろうとすると、
「ナイーブだ」「感情的だ」「宗教にすがっているだけだ」といったレッテルが貼られ、
知的信用・社会的信用が損なわれるような空気が作られてきました。

これは、文化的・精神的な領域における一種の差別であり、
考え方の自由、体験の自由、人間としての内面の語りの自由を奪う重大な問題です。

さらに教育を通して、「三次元しか存在しない」という信念が当たり前の常識として植え付けられ、
私たちは三次元以外を体験できないように、意識の周波数の自由を制限されています。


しかもこの仕組みには普段ほとんど気づけないため、差別や排除の構造は目に見えないまま維持されているのです。

意識の周波数の自由化をこれから進めて行く必要があります。

⑦  内面化:自分の中に入り込む支配構造

三次元絶対主義の最も巧妙な点は、それが外側の制度や権威だけでなく、人々の内面にまで浸透していくところにあります。

つまり、私たちは自分のスピリチュアルな直感や体験を、「そんなのは気のせいだ」「幻覚だ」と切り捨て、

「もし他の人に話したら馬鹿にされる」「社会人として軽蔑される」と、無意識のうちに自己検閲をしてしまうのです。

この自己で自分を検閲してしまうことで、次第に「三次元しか存在しない」という信念を強化して、社会での規範化(ルール化・制度化)が浸透していきます。 しかも、ほとんどの人は、それに気づきません。


まるで、見えないカーテンに覆われた部屋の中に暮らしていて、外に広がる光の存在を忘れてしまうようなものです。
自分でカーテンを閉めているのに、それが「自然なこと」だと思い込んでいるのです。

こうして、外部からの監視や弾圧がなくても、人々自身が自分を進んで縛る仕組みができあがります。
哲学者フーコーが語った「権力の内面化」が、ここでは人間の意識の管理、意識の深い領域にまで及んでいるのです。

⑧  無視の代償:魂の可能性が失われる

しかし、この「自己検閲」と「制度的な封じ込め」には重大な代償があります。
それは、人間が本来持つはずの多次元的な可能性を切り捨ててしまうことです。

人間の存在は本来多次元的であり,もとから3次元を超え出ているのでありそれを三次元だけに制限すべきではありません。

多様性とは、他人に価値観や生き方の多様性にとどまらず、多次元的な生き方や感性を指すべきものであるべきです。

三次元だけに閉じ込められることは、広い太平洋を自由に泳ぐ魚を小さな水槽に入れて「これが世界のすべてだ」と言い聞かせるようなものです。


本当はもっと広い海があり、もっと自由に泳げるのに、存在の可能性を自ら制限してしまう。

ソクラテスは「魂は肉体から自由になることで真実を知る」と語りました。


もし異次元や人間の意識に実在する深層を、今の様に無視し続けるなら、私たちは「嘘の現実」を生きていることになります。

その結果、慢性的な閉塞感、不安、意味の喪失が生まれ、現代人を苦しめているのです。

普段経験している、3次元の意識状態は、別の高い意識の状態と比較すると、とても重たく、冷たく、かなり苦しいものです。

この状態に、自分たちを縛り付けることは、そのような重たく苦しい状態に縛り付けることなのです。

⑨  出口の設計:次元を超えた「知」の再構築

では、この閉塞をどう突破できるのでしょうか。
その答えは、「三次元の外にも世界がある」という、あたりまえすぎる常識を取り戻すことにあります。

個人の覚醒だけではなく、社会的・文化的なインフラが必要です。

  •  瞑想や意識探究を学べる教育

  •  異次元的な体験を語れる安全な共同体を広くつくる

  •  科学・哲学・スピリチュアル・宗教を架橋する偏見のない学術的場

  •  3次元の知的な方法により過ぎない、体験的なインフラ

これらがそろってはじめて、人類は「三次元絶対主義」の支配から抜け出せます。

たとえるなら、窓のない部屋に小さな窓を開けるようなものです。
そこから差し込む光をきっかけに、私たちは外の世界の存在を思い出すのです。

出口の設計とは、単に個人の信念を変えることではなく
意識の周波数を自由に選び、多次元的な存在の可能性を取り戻せる社会の仕組みを築くことです。

結論

異次元が「存在しない」とされたのは、実際に存在しないからではありません


三次元の意識状態が唯一の基準として絶対化された結果アクセスの手段が封じ込められ、社会的に「存在しないことにされた」のです。

本当は、異次元や多様な意識状態は人類史の中で繰り返し体験され、近代になるまで普通に語られてきました。


しかし近代以降の制度と思想は、それらを「非科学的」「幻想的」と切り捨てることで、見えないカーテンを引き、光を遮ってしまったのです。

したがって、私たちが向き合うべき課題は、「本当に存在しないのか?」と問うことではなく、
「どの様に存在しないことにされたしまったのか?」という構造を見抜くこと
です。

そこに気づくとき、私たちは再び、封じ込められていた意識の周波数を自由に選び、

三次元を超えた広がりを取り戻すことができるのです。