瞑想とは?:能動と受動を超えて:能動を取り入れる瞑想パラダイム
――現代人には“ただ観る”だけでは足りない理由
瞑想と言えば、多くの人は「ただ観察するもの」「受動的なもの」「受け身でただ受け取り、観察する」というイメージを持っています。
確かに、マインドフルネスの入門書では、
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何もしない
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力を抜く
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流れに逆らわない
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ただ気づくだけ
といった「受動性」が強調されます。
しかし
「現代人にとって、瞑想は“受動的なもの”では不十分ではないか。。。」
「瞑想とは、本来“能動的な選択の営み”でもあるのでは。。。」
この視点は、瞑想の理解を変えるだけでなく、
現代人が抱えるストレス・自己否定・反応的な思考の連鎖を断つための、
新しい入口にもなります。
* いまの現代人の脳は「受動的に気づくだけ」では静まらない。
ここが大切なポイントです。
激しく脳・心を動かすことが当たり前の現代人。
情報処理過多の毎日に生きている。
この状態の人に「ただ観察しなさい」「ただ受動的になり、気づきなさい」というのは、
泳げない人に“力を抜けば浮くよ”と言っているのと同じだと思います。
■1.なぜ「瞑想=受動的」という誤解が広まったのか
瞑想と聞くと、多くの人が「ただ観る」「何もしない」「力を抜く」といった、
受動的な姿勢 をイメージします。
その理由は、欧米で広まった瞑想文化が、
禅・道教・ヨガ・仏教・ニューエイジが混ざり合った
“東洋精神性の簡略化パッケージ”として受容されたからです。
この混成文化の中で、象徴的に取り出されたのが
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手放す
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自然に任せる
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何もしない
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空になる
といった 受動性の側面だけ でした。
実際には禅も道教もヨーガも、
能動性と受動性が統合された非常に高度な体系ですが、
欧米ではシンプルで使いやすい“東洋らしさのイメージ”が独り歩きし、
「瞑想=受動的であるべき」
という理解が世界に広がっていきました。
この受動性一辺倒の瞑想観は、
瞑想が本来持っていた“全体性の回復”という核心を見えにくなります。
欧米のマインドフルネス
欧米のマインドフルネスは、資本主義の中で成果主義やビジネス界とつながって広がりました。
そこで多かったのは、
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瞑想で集中力を上げよう
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パフォーマンスを改善しよう
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もっと良い自分になろう
という「操作しようとする心の動き」が強すぎた。
そのため、指導する側が必要以上に
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受動的であれ
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ただ観察しろ
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何も変えようとするな
という“逆方向の指示”を強調する必要もあったと思われます。
受動性一辺倒の“簡略化された東洋イメージ”が広がることで、
瞑想が本来持つ“全体性の回復”=能動性・受動性の区別を超える全体性の回復
という側面が隠されてしまったのかもしれません。
世界には 動的な瞑想 も存在する
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マンダラ瞑想(観想系)
色・形・対称性・象徴を使い、意識を一点に集中させる。
中に入って歩くイメージをし、曼荼羅の中心に座ることをイメージ。
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浄土をイメージする観想
浄土宗・真言系にある「極楽観」「内観法」。
極楽浄土をリアルにイメージする瞑想。 -
チベット密教の「生起次第」
神々・光・五色の光線・仏の姿を詳細に Visualize/ 観想する。
高度な動的瞑想。 -
アクティヴ・イマジネーション(ユング)
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OSHO ダイナミック瞑想
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スーフィーの回転舞踊
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マントラ瞑想(音を能動的に唱える)
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気功・太極拳の瞑想性
- その他各種の観想(visualization)
つまり、
動的瞑想が「無い」わけではない のです。
しかし、欧米で爆発的に普及したのは 「受動的な瞑想」 が中心。
科学的研究の対象となったのは「受動瞑想」のみ
そして脳科学は
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観察
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非判断
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呼吸観察
を中心に扱う傾向が強いように思います。
● 宗教色を薄めるために、能動的・観想的な伝統は意図的に外された
動的瞑想は宗教色が強く、一般化が難しいという事情や背景もあるでしょう。
科学的な方向性や、資本主義のなかで、一般化する為には、宗教的な色がない方が普及しやすかったのだと思われます。
■2.瞑想の本質は、“能動と受動の両面を含む全体的なプロセス”である
「瞑想は受動的であるべきだ」という見方は、
瞑想の半分しか捉えていません。
実際の瞑想は、
能動・受動・そしてその両方を超えた全体性
の三層が同時に働いています。
●(1)能動的:意識の位置を“選び直す”働き
受動的な瞑想であっても、思考や感情の波に巻き込まれそうになった瞬間に
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積極的に一歩引く
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観照者としての視点に積極的に戻る
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意識の角度を自主的に選ぶ
という 能動的な意識の転換 の連続です。
これは“積極的な選択”であり、主体的な働きです。
●(2)受動的:現れたものを“あるがままに受けとめる
同時に瞑想には、
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コントロールを手放す
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抗わない
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現れた現象に逆らわず、流れにゆだねる
という 受動的な方向性 も含まれます。
これが、癒し・浄化・安心感をもたらします。
●(3)全体性:能動と受動の区別が溶けていく領域
瞑想が深まると、
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「選ぶ」という能動
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「受け入れる」という受動
この区別そのものが、無意味になるというべきか。。。。
そのどちらでもない “全体性の領域” が姿を徐々に現します。
それは、
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積極的に行っているようで受動的に展開もしている
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意図的に観ているようで意図的には観ていない
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存在しているだけなのに深く目覚めている
というパラドックス的?な状態。
こここそが、
瞑想の核心=本来の自己への回帰(Wholeness)
です。
つまり、瞑想とは
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能動だけでもない
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受動だけでもない
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「能動+受動+それを超える全体性」
という三層構造を持つ 全体性回復的プロセス なのです。
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■3.受動性が強すぎると、瞑想はヒプノ(催眠)と部分的に重なる
能動性が落ちすぎて受動ばかりが強まると、
瞑想は 外部の言葉が深く入りやすい意識状態 になります。
これは、
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リラックスが深い
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批判的思考が弱まる
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イメージが受け入れられやすい
という特徴から、
ヒプノシス(催眠)と部分的に重なる のです。
ただし、ここが重要です。
●催眠に近づくことは、必ずしも“悪い”わけではない。
ヒプノ的な受動性には以下のプラス面があります:
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深い癒し
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インナーチャイルドの緩和
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自己否定の解放
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眠りに落ちる前の心の安らぎ
あなたの「寝る前の瞑想」が強烈に癒し効果を持つのは、
まさにこの恩恵によるものです。
つまり、整理すると:
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受動性を強調するほど、“癒し”と“ヒプノ系”に寄る
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能動性を取り戻すほど、“気づきの瞑想”へ寄る
どちらが良い悪いではなく、
これは 意識のスペクトラムの中の方向性の違い なのです。
瞑想はこのスペクトラム全体を含む“全体的な意識の方法論”であり、
それが瞑想の持つ本来の豊かさでもあります。
■4.現代人になぜ“能動性を含む瞑想”が必要なのか
瞑想が「受動的なもの」として広まってきた背景には歴史的理由がありますが、
現代人の心の状態を考えると、受動性だけでは足りない という現実があります。
現代の生活は、過去のどの時代よりも「脳への刺激」が強く、
人の意識は絶えず動き回り、更なる活動に飢えています。
●(1)現代人の脳は“過剰反応モード”にある
スマホ、SNS、通知、マルチタスク……
現代人は「反応する」ことを常に強いられています。
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すぐ返す
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考える前に反応する
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情報に引っ張られる
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他人の言葉に心が揺れる
表面上は“能動的に動いている”ように見えますが、
その実、主体的に選んでいるのではなく、
刺激に動かされる“反応的な受動性”が日常化している のです。
現代人の意識は「能動的」にSNSに投稿してはいても、実はかなり「反応的」(reactive)です。
この状態で、
「ただ観察しましょう」
「何もしないでください」
と言われても、
すぐに思考の渦に巻き込まれ、瞑想になりません。
スケートが出来ない人に、いきなりスケートの靴を履かせても転ぶだけ。
●(2)能動性=全体意識を取り戻す
ここで必要になるのが、能動的な選択。
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思考への没入をやめる
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反応から一歩引く
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自分の意識の角度を変える
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本来の「気づき」「アウエアネス」の位置に戻る
これらはすべて、
外側の刺激に奪われていた 本来的な自分の意識の主導権を取り戻す行為。
つまり、能動性とは
大きな自分自身に返ってくる動き
であり、
現代人が失いがちな“内側の中心”を取り戻す鍵なのです。
● 能動的なアプローチは「観察ができない時」に力を発揮する
現代の瞑想実践では「観察」が重視されますが、
実は観察ができないほど意識が動いている場面では、
もっと能動的なアプローチが役に立ちます。
たとえば僕自身は、雑念が激しいときには
“ただ観る” という受動的姿勢ではなく、
あえて 能動的に雑念に触れにいく ことがあります。
楽しく遊ぶ感覚で、瞑想をまじめに考えないで、ゲーム感覚で取り組みます。
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雑念を積極的に探しに行く
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雑念の中身に入り込んでみる
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そのエネルギーと一体化してみる
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雑念がどこから来て、どこへ消えていくのか「探索」してみる
これは単なる観察ではなく、
“能動的な内的探究(active inquiry)” に近い実践です。
雑念を避けたり嫌ったりするのではなく、
“遊び”として関わってみる。
すると不思議なことに、
意識はかえって静かになり、
雑念に対する恐れや抵抗が自然に消えていくのです。
この能動的アプローチは、
観察だけでは届かない領域へ意識を開きます。
●(4)受動性だけの瞑想は、自己否定の強い人には苦痛になることも。。。
心が傷ついている人、自己否定が強い人ほど、
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静かに観察しよう
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何もしない
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流れに任せる
という受動的瞑想が、逆に苦痛になることがあります。
なぜなら、自分を責めている心に
“何もしない”を指示すると、
「何もできない自分」
「うまく瞑想できない自分」
という新たな自己否定が生まれてしまうから。
その点、能動性を含んだ瞑想は、
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意識の位置を変える
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選ぶ
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自分へ戻る
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自分を守る
という 自分を肯定する動き を自然に含みます。
能動性は、自己否定のループから抜け出すためのサポート・補助にもなるのです。
●(5)能動性は、瞑想を“実践できる技法”に変える
受動性だけで構成された瞑想は、ある意味理想としては美しいのかもしれません。
でも実践しようとすると失敗しやすい。
一方、能動性を含む瞑想は
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行動したり選んだりする
-
意識の立ち位置を変える
-
意識の向きを変える
という 具体的な動き があるため、気楽に実践できる可能性が高い。
つまり能動性は、
「瞑想を理論から実践に変えるための現実的な方法」
にもなります。
■ まとめ: 瞑想とは“能動 × 受動 × 全体性”の回復である
本記事で見てきたように、現代の瞑想理解は長い歴史の中で
「受動性だけが強調された版本」へと偏って広がってきました。
しかし、本来の瞑想とは、
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能動的に意識の位置を選び直す(主体性・覚醒)
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受動的に現れたものをゆだねていく(手放し・癒し)
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その両方が溶けて“ただある”という全体性に戻る(本来の自己)
という三層が同時に息づく、
極めて全体的で統合的なプロセス です。
受動性ばかりが強調されると、瞑想はヒプノ的な方向へ傾き、
癒しとしては働きやすい反面、
本来の「気づきへ戻る力」が弱まります。
一方、能動性だけでも瞑想にはならず、
コントロールや緊張へ傾く危険もあります。
だからこそ瞑想は、
能動と受動を両翼として“全体性へ帰る”意識の旅なのです。
そして、この新しい視点は、
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現代人の脳の複雑さ
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情報過多の時代性
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自己否定が強い人々の心の癒し
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深い自己理解
-
スピリチュアルな覚醒
すべてに橋をかける、
もっとも本質的で、もっとも現実的な瞑想理解です。
瞑想とは、能動も受動も超えて、
本来の“全体としての自分”へ戻るプロセスである。
その理解こそ、次の時代の瞑想の土台となるでしょう。
個人的なおすすめは:
雑念を 積極的に“遊び相手として”扱うこと がおすすめの瞑想の方法の一つです。
たとえば──
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あえて雑念を探しに行く
→ 不思議なことに、探そうとすると雑念は後退したり弱まったりする。
まるで「見つかったら困る」かのように逃げていく。 -
雑念の中に飛び込んで“泳いでみる”
→ 思い切って雑念の中で泳ぐように動くと、
逆に雑念は溶けるように消えていく。
水の中に入るほど、水の抵抗がなくなるように。 -
雑念に話しかけてみる
→ 「君はどこから来たの?」
「何を伝えたいの?」
と語りかけるように見ると、
雑念の中心にあった緊張がふっと緩む。 -
雑念のエネルギーと一体化してみる
→ 抵抗をやめると、雑念のエネルギーそのものが
「ただの動き」に変わり、重さが失われていく。
こうした遊びとしての瞑想は、(playful meditation)
観察ではなく 能動的な内側の探究(active inquiry) に近いものです。


