神とエクスタシーは同じこと。快楽は、神の息吹

『快楽は、神の息吹だった|身体が震えるとき、神が目を覚ます』

快楽は、悪じゃない。
それは、神の息吹だった

身体が震えるほどの歓び。
言葉を忘れるような震え。


心も理性も超えて、
“わたし”という境界がとけていくあの瞬間──

神は、遠くの天にいる存在じゃなかった。

いや、確かに確かに遠くの高い次元に存在するという表現も可能では。それもありだ。

しかし、神はわたしの中にもいた。
わたしそのものとして、自分の中に、ひらいていた

この世で体験できる、
最も純粋な快楽。


最も深く、最も澄んだエクスタシー。
それは、神様そのものなのだと、
何度も体の奥で感じてきた。

快楽・エクスタシーは、純化した形では、神様そのもの」。
この言葉は、比喩ではない。
本当にそうなのだ。

最大最高のエクスタシーとは、
肉体を通じて、魂が神と再び溶け合う瞬間

愛と存在が一致する、その一点の振動。
その震えの中で、神は目を覚ます。

なのに、なぜこの世界では、
快楽を「堕落」と呼び、
エクスタシーを「罪」と教えてきたのだろう?

なぜ「感じてはいけない」と言われ、
「それは恥だ」と言われ、
人はその喜びを、隠さなければならなかったのだろう?

エロスでは、性と聖が合致する。

でもそれは、近代社会以来人間が一番排除したいコンビネーションだったのだ。

近現代の、世界観からは、一番小さく閉じ込めておきたい、

禁断のコンビネーション。

でももう、隠さなくていい。
でももう、押し込めなくていい。

快楽は、堕落じゃない。
純化したエクスタシーは、神聖な祈り

感じていい。
震えていい。
その中に、ちゃんと、神がいるのだから。

わたし達はこれからそれを、
恥じることなく伝えていかなくてはならない。

最高の純粋なエクスタシーとは、
神様のことなのだから。

その上、もし最高の純化された快楽ではなくても、

宇宙意識にすこしだけ触れることは出来る。それで十分であるから。