自分は学者になると思っていた。けれど、体験がすべてを変えた

 1: 概念を越えるということ

哲学を学んでいたはじめのころの僕は、概念を使い、複雑で高度な知的問題に挑む。
知的な世界に住んで、そこで成果をあげる。
それが自分の役割だ――そう信じていたのです。

しかし私たちは、普段使っている、この普通の意識にあまりにも支配されています
思考の流れの中に巻き込まれ、
その外に出ることは、考えもしない。

それに完全に占拠されていることさえ、気づかずに生きている―

知的な世界では、むしろ知的であればあるほど素晴らしい。そんな世界です。

その外側に静かに在る“広大な意識”に、気づけずにいる。

その存在に触れたとき、
世界が劇的に変わりました。

それは知的理解ではなく、体験として訪れた「哲学」でした。
そして僕は、学問の世界を超え、
“深い意識としての哲学”という道を歩きはじめたのです。

2: 意識の奥にひそむ静けさ

僕の中で、世界の見え方がどんどん変わり始めました。

それまで僕にとって大切な事とは、
きちんと考えること、しっかりと判断すること――
つまり知的にいきることでした。

西田幾多郎の本の中には「絶対無」は、自分で直接体験しないと理解できないと書かれていました。
僕も、それを頭ではなく、体験として理解しました。

概念で理解しようとすればするほど、
それは遠のいていく――ということを。

「無」とは、何もない空虚ではなく、
すべてを包み込む静寂であり、無限の愛、無限の広がりでもあり、永遠のあたたかい場でした。

そこには、善悪も、損得も、比較も、焦りもありません。すべてを超越しています。
ただ、すべてのすべてが、がそのまま存在するだけです。

そのとき気づいたのです。
そして、この宇宙(世界)のほとんどは“目に見えない世界”でできているということを。
それは都市伝説ではなく、
体験としてはっきりと分かる“当たり前の当たり前の現実”でした。

けれど私たちは、
そのあたりまえのことを忘れたまま、目に見えるものだけを現実と思い込んで生きています。

けれど、こうした深い意識体験をしなくても

けれど、こうした深い意識体験をしなくても、
もっと身近なところで、
私たちはいつでも“深い変化を体験していけます。

たとえば、自分の感情からある程度離れられれば、

雲は気持ちよく、白く流れ、目の前の葉っぱは、いつも優雅に風にそよいでる。。。。
そこには、永遠の入り口が、いつもあなたを待っている。

普段の思考や感情の上下に巻き込まれずにいるだけで、
日常の景色がまったく違って見える体験が、あなたを待っています。

松尾芭蕉の、古池やかわず飛び込む。。。。の俳句の世界。

静寂から静寂へ。永遠の安らぎから、安らぎへ。

特別深い意識の体験ではなくても、
人生は驚くほど変わりはじめる――。

 3: 内側に還る

深い意識は、特別な人にだけ訪れるものではありません。
それは、誰の中にもすでに息づいている“静かな領域”です。

私たちはつい、変化とは「外側の出来事」だと思いがちです。


仕事がうまくいった、誰かに認められた、状況が変わった――
けれど、本当の変化は、もっと内側で起きてきます。

感情や思考に飲み込まれずに、

その外側の意識や、「気づいている意識」として、
その静けさの中で、世界が少しだけ違って見えます。


そのような積み重ねで、“自分の外側”ではなく“内なる広がり”から生きはじめます。

「意識の再教育」とは、
この小さな瞬間を自分の中に取り戻していくことです。

怒りや不安の真っただ中で、
ほんの少し距離を取って「自分を観ている自分」に気づく。
そのたった一呼吸の静けさが、人生を変えるきっかけにもなります。

僕のセッションで行っているのは、
そうした“内なる広がり”を取り戻す練習です。

自分の内側は、無限にどんどんと広がっていきます

そして、自分の内側は、すでに無限に広がっています。 これに関して現代人は無知です。

その為には感情を否定するのではなく、
その感情を抱きしめながらも、それに支配されない場所を見つける。

そうすると、不思議なことに、
毎日の外の世界も変わりはじめます。


周囲の人の言葉がやわらかく聞こえ、
何気ない景色にも温度を暖かさを感じるようになる。


世界が優しくなり、また同時に、
優しさを感じられる自分に戻っていく。

引き寄せの法則の様な出来事も、当然起きてくることもあります。


🌸  結論:思考を超えて、生きる

この宇宙は、見えない意識の海でできています。

私たちはその一滴でありながら、
同時に全体そのものでもある。

哲学とは、本来“生きること”そのものであり、
思考ではなく体験を通して“存在の深み”に触れること。

だから僕は、知性の世界を離れて、
今は“意識をひらく”という形で人と関わっています。

それは、誰かを「導く」というよりも、
一緒に思い出していくため――

普段の意識が静まったの中にこそ、
真の力と愛があります。

そして、その広がり、大きさに気づくことこそが、
意識が再び目覚める過程なのです。