【遊ぶ瞑想】真面目すぎる瞑想をやめて、もっと自由に、もっと楽しく。Playful Meditation
瞑想と聞くと、多くの人は、真面目に考えます。
そして、“じっと動かずに呼吸を観察する”
“雑念を手放す”
“自分の感情に反応しない”
といった、どこか「修行」のようなイメージを持ちます。
しかし僕は長い実践の中で、
もう一つまったく別の瞑想の道 があると思って気ました。
それが――
🔶「遊ぶ瞑想(Playful Meditation)」です。
「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、
楽しければ楽しむほど上達する。
これは瞑想にもそのまま当てはまります。
遊びの気持ちで取り組むと、
瞑想は“辛い練習”ではなく、
“やればやるほど楽しくなるゲーム”に変わるのです。
この方法では、雑念は、遊び相手です!
一緒に遊んでくれる遊び相手の雑念は、瞑想に必要な存在になります。
だから、雑念が出る方が、「ありがたいぐらい」だと思ってください。
■1.遊ぶ瞑想は「失敗」が存在しない
この遊びには 失敗という概念がありません。
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上手くいかない日があってもOK!
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雑念だらけでもOK!
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集中できない日があってもOK
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途中で寝てしまってもOK
なぜなら…
🔷そもそも遊びだからです。
遊びは、うまくやるためにやるのではなく、
楽しいからまずやる。
この姿勢は、瞑想を長続きさせる最大の秘訣です。
上手く遊べない時は、途中でやめてもいいし、
忙しい時期は、無理をしてやることもない。
■2.“観察者でい続ける必要はない”
「瞑想は観察者であれ」という言葉がよく語られます。
しかし、観察者でいようと“努力”してしまうと、
かえって心は固まり、緊張し、疲れていきます。
遊ぶ瞑想の視点では、こうです:
🔶観察者でい続ける必要なんてない。
🔶遊んでいるうちに自然に観察者へ戻ることもある。
🔶努力ではなく、遊ぶほど静けさが現れる。
つまりここでは、
静けさは遊びながら勝手に現れてくれる
ものです。
■3.遊ぶ瞑想 “実践例”
僕が勝手に生み出した技法は、色々あるのですが。。。。
その一部をここではすこし整理して紹介します。
●① 雑念にボールを投げる(Ball Meditation)
雑念が出るたびに、
軽くボールをひとつ「ポン」と投げるイメージ。
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投げる
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投げる
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投げる
と続けているうちに、
雑念が弱まり、
やがて数が減っていく。
完全にゲーム感覚でOK。
気楽に、野球のボールを投げてみましょう。
●② 雑念を探しに行く(Active Seeking)
“雑念を消す”のではなく、
逆に 積極的に探しに行く。
探すと意外にも、雑念は弱まることがかなりある。
雑念の正体を“観る”というより、
“追いかけっこを楽しむ” という感覚。
鬼ごっこをしている。
そんな感覚で十分です。 無邪気に、子供の様に、軽く戯れる!
雑念を探しに行くほど、見つからなくなる = 雑念がなくなっていく。
そんなことも時々起こります。
●③ 雑念の中に入って泳ぐ(Swimming Meditation)
強い雑念が出てきたら、
その中に 飛び込んで泳ぐ。
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中に入る
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動きを感じる
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エネルギーを味わう
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そのまま漂う
- 一緒に寝てあげる。。。。
すると、雑念は溶けるように弱まっていき、
最後は自然に消えることも多いです。
瞑想とタオイズム(道教的遊び心)が融合した技法。
●④ 雑念に話しかけてみる(Dialogue Meditation)
「どうしたの?」
「何を伝えたいの?」
「怒ってるの?」「悲しいの、不満なの?」
とやさしく声をかけてみる。
雑念は抵抗ではなく、
実は心のサインだったり、未消化の感情だったりする。
聞いてあげると、ふっと静まっていく。
「あ、傷ついているんだね~」
「あ、色々ストレスで大変なんだね~」
と共感・同情してあげてみて下さい。
やさしく声をかけられると、雑念はふっと緊張をゆるめます。
まるで、長い間誰にも気づかれなかった子どもが、
ようやく抱きしめてもらえたように。
「そっか、傷ついていたんだね」
「色々とストレスが溜まって、大変だったんだね」
と、共感してあげる。
その“寄り添い”が起こった瞬間に、雑念は驚くほど静まります。
無視されると強くなります。
戦おうとすると抵抗します。
でも――
聞いてもらえると、安心して消えていく。
まるで
「もう大丈夫だよ」
と言われて、安心して眠るように。
この瞑想は、観察でもなく、抑圧でもなく、
心の声と遊びながら“対話する”瞑想 です。
(ただし、深刻なトラウマ・うつには単独で使うより、
補助的セルフケア として用いる方が安心。)
■4.遊ぶ瞑想には “無限の自由” がある
遊びには ルールがない。
自分で好きに作り出し、創造する楽しみがある。
どこまでも自由に形を変えられる。
だから、
🔷自分の心と遊ぶこと自体が“瞑想という芸術”になる。
外側の世界ではできない遊びが、
心の内側では無限にできる。
大げさに言えば。。。心の中の 「アート」 です。
■5.「遊ぶ瞑想」の効果
もし効果が出やすい可能性があるとすれば、その理由はシンプルです。
✔遊ぶ=緊張が抜ける
✔緊張が抜ける=抵抗が消える
✔抵抗が消える=雑念が弱まる
✔心が軽くなる=自然に静けさが現れる
受動瞑想では「がんばって観察しよう」になりやすい。
しかし遊ぶ瞑想は、心を柔らかくし、楽な方法で、続けやすいので
無理せず心を整える道を開く。
■6.遊びは「新しい自分の瞑想の形」を生み続ける
瞑想は宗教や伝統の枠を超えて、
本来はもっと自由で、創造的で、
個人によって形を変えるものであって欲しい。
自分で自由に形を生み出し、
その時の気分で、どんどんと好きに変形させていく。
無限に遊び続ける。
遊ぶ瞑想は、
伝統の枠にこだわらず、同時に本質へ戻る道 です。
■まとめ
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瞑想は遊びでいい
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遊びの方が上達する
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雑念は敵ではなく、遊び相手
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観察者でい続ける必要はない
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遊ぶほど自然に静けさが出てくる
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失敗がないから気楽で毎日続けられる
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心が重いときは聞いてあげる瞑想もできる
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心の内側は無限の遊び場
瞑想は「修行」ではなくてもいい。
もっと自由で、軽くて、柔らかくて、
そして“遊びそのもの”であることができる。


