人間が本当に望んでいるもの・欲しいものとは何か? 悟りや異次元から 

<人間が本当に望んでいるもの、欲しいものとは何か?> 悟りや異次元から

人間が本当に望んでいるもの、欲しいものが、なんであるのか、人間は全く理解していない。

その理解の方法さえもしらないから、この事態は「当然である」とも言えてしまうのであるが。

全ての人間が、本当に望んでいるもの、本当に欲しいものは、悟りである。

悟り以外のものを、どんな人間も望んだり、欲しがったりすることは、絶対にありえない。

なぜならば、それ以外には、存在するものなど、はじめからないからである

だから、それ以外物のを望むことは、そもそもが出来ないという、言ってみれば、

当たり前の当たり前である。

 

何を欲しがっても、何を望んでも、それを望んでいることになってしまうという、

宇宙の基礎的な構造ゆえである。

 

例えば、自分は「旅行に行きたい」

「おしゃれなレストランでランチしたい」と、思っているとしよう。

でもそれは、そのようにこの肉体を生きている普段の個人の立場での望みとして、

思われている・感じられているのは、これ確かな事実なのであるが、

で、そういうこの僕自身も、今その様に実際に望んでいるので、ちょうどよい例でなのあるが。。。。(笑)(ほんと、石垣島きれいだよ~~!)

 

そもそも、そういうレストランやランチや石垣島というものが、この現象界にしか存在しえないという、

空的なともいうべき、幻想であるばかりか、

そのおしゃれな美味しいランチ体験とは、

本当に自分の欲しい物の存在を、薄めて薄めて。。。。元の姿がわからない程度までに薄めて。。。

その極度に薄まった、ちょっとした薄い影を

美味しいランチ・楽しい旅行という形で、ほんのちょっと味わっているだけの事。

 

本当に欲しい物、望んでいるもの、すなわち悟りを、

極度に薄めて、その影をほんの一部体験して喜んでいるだけのことである。

であるから、本当の満足とは、ここからは味わえるわけがない。

だって、本当に欲しい物は、

極度に薄まって、見えるはずもないし、味わえないだから、

どんな旅行もランチも、「途中の体験」で終わってしまう宿命にある。

 

悟りという、名前なき「それ」は、

あまりにも、きれいで、

とても、純粋すぎて、

この普段の3次元世界には、とても存在しない。

普段は出会えないし、出会えないから、普段の自分のレーダーの外に置かれてしまう。

そうするとどうなるか?

 

それはどうしても、小さいものにしがみついてしまうということ、すなわち、

普段体験できるもの、普段の状態でもアプローチしたり理解できるものに、

その代わりとして、没頭してしまうという事になる。

 

代わりを、本物だと勘違いする、すなわち、

本当に欲しい物ではなく、代わりのものを本当に自分は望んでいるんだと、深く納得してしまうということ。

狭い回路に回収されて、出口を探せないことに気が付けなくなるという事である。

 

普段の生活で目標にしたり、

よく思い浮かべたりするものはほとんどが、このいつもの生活や3次元の基準では、大切なものではあり

それはそれとして、とりあえず毎日必ず必要でもあり大切にされるべきではあるのだけれど、

 

でももし、広い広い異次元宇宙に、

一度出てしまえば、

たとえ悟りの場所まではいかないとはしても、

ほとんど、何の使い物にもならない

 

あなたが、欲しいはずのものは、

そういう物ではない。

 

自分の体も消え、自分と思っていた存在も消え、

自分は何をしているところの存在であったのか、

そもそも自分は何なのか、

そういう事が全然分からなくなり、

問題にさえも、ならなくなり、

今まで真剣に追求してきた、

自分の主張や生き方や考えや、

生い立ちなんか、

もうどうでもよくなり、

そういう所で、様々な驚愕の事実に直面する。

 

本来は、理論や哲学というものは、そういう場所から語られるべきもの。

そこでは、今までの自分が、いや普段の知性や感性が、

いかにせまく表面的であったかという、

ごく当たり前な宇宙的事実に直面する。

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