毎日を大切に生きるでけでは、毎日の大切さがわからない 異次元体験の必要性
毎日を大切に生きよう。
それはとても大切で、その通りであるのだが、
そこで話が普通は止まってしまう。
そこに大きな限界を感じられないような、未熟な社会に、
今我々は住んでいると、本当は認識されるべきなのである。
大切であるこの3次元から、実は離れる事が、
いかに大切で、いかに必要な事なのかの認識が,
この社会には足りない。
ところがそれがなければ、次の段階に社会が進める兆しがなかなか見えない。
そういう事に、話がなかなか及ばない現状に危機感をおぼえてこそ、
広い見識を得ている成熟した社会であると言えるのであるが。
そして、この3次元を離れることが、実は3次元を大切に生きるためには、必要不可欠であるという、
3次元を「大切に」するためには、逆に3次元を「捨てる・離れる」という、ねじれの構造が広く認識されねばならない。
この3次元に生きる限り、この毎日の生活や人間関係は、とても貴重で大切なものであるが、
その事と、それを捨てることは、補完しあうのであって、お互いに排除しあう関係にはない。
なぜなら、3次元を離れなければ、3次元の特質・性質がよくわからない。
3次元にどっぷりつかって、そこだけに居ては、
どのような特徴があるのか、どの様に特別で異質で、いったいどうアプローチしたらいいのか分からない。
例えていえば、世田谷以外の存在を知らず、また世田谷以外を語らずに、東京や世界は語れないし、語った事にはならない。
東京の世田谷にいて、それが東京や日本や世界の全てであると、
信じていては、どうにもこうにもならないと同じ事。
3次元しかない、異次元がないという、完璧なおとぎ話を、
いつまで信じて生きているのか現代人は。
「ごっこの世界」という江藤淳の言葉を借りて言えば、
これほど浸透してしまった「ごっこの世界」は、
ごっこの世界からはみ出る人間や感性を許さない。
非寛容で排他的である。いや明らかに、差別が横行している。
「オカルト」「宗教的」「スピリチュアルでフワフワ系」「ただのSFや漫画の世界」「幻想にすぎない」などと呼ぶことで、
差別や排除が毎日の風景の一部となっている。
差別された側は、ひっそりと隠れるように暮らす以外にない。
ところが、3次元を捨てるのは、じつは「幸せに近づく」という事の必要条件なのであって、
3次元にしがみついて生活するこの現代的な生活だけで、深い満足できるような幸せが体験できる・味わえるという事ではない。
捨てる事が、どんなに人類にとって、根本的なのか、まだまだ現代社会は、わかっていない。
3次元は、重たい低い暗い波動で出来ている。
だから、捨てるから、幸せ。
捨てると、気持ちいい。
捨てたら、のびのびで、うれしい。
離れる・捨てる事を、しなければ、
いつまでたっても、幸せになんて、
なれるわけがないのである。
3次元の上の、そのまた上の幸せがあるのであって、そういう事が分かって、
やっと自分や自分たち(社会)の、本当に欲しいものが、見えてくる。