遊ぶ瞑想:現代人に必要な“第3の瞑想” Playful Meditation
■「動的な瞑想」と「遊ぶ瞑想」
──その違いと、現代人に必要な“第3の瞑想”とは?
瞑想と聞くと、多くの人は
「呼吸をただ観察する」「心を静める」「何もしないで、ただ自分の感情をながめる」
といった受動的なイメージを浮かべるかもしれません。
でも一方で、チベット密教や道教、あるいはユング心理学には、
“能動的に心の世界にかかわる瞑想法(動的瞑想)” も存在します。
僕自身が日々の瞑想の中で勝手に実践してきたのは、
このどちらでもない、
「遊ぶ瞑想(Playful Meditation)」 とも呼べる、
ものでした。
この記事では、
■ 動的な瞑想とは何か
■ 遊ぶ瞑想とはどう違うのか
■ なぜ現代人に“遊び”が必要なのか
を分かりやすく整理します。
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■1.動的な瞑想とは何か
動的な瞑想は、
“イメージを構築し、その世界に能動的に入っていく瞑想” です。
代表例は:
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チベット密教の観想(生起次第)
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マンダラ観
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浄土の観想
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マントラ瞑想
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Active Imagination(ユング)
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OSHOダイナミック瞑想
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気功・太極拳
これらの多くに共通する特徴は、次の通りです。
🔶(1)目的が明確
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心を浄化する
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自我を超える
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仏の智慧に近づく
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空性へ向かう
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高度な意識状態に入る
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変容(transformation)を起こす
瞑想というより、
“精神の建築術”と言った方が適切かもしれません。
🔶(2)構造化されている
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何を観想するか
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どう呼吸するか
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どんな順序で進むか
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どの段階で意識を変えるか
手順・形式・目的が始めから決まっています。
🔶(3)修行として行う側面が強い
ある意味で“目的達成型の瞑想”といえます。
🔷動的な瞑想は、悟りの構造を再現する
つまり、
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光を観想する
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マンダラを構築する
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浄土に入る
-
仏の姿になる
といったものは、
悟りの体験の構造(光・空性・非二元)を
“前もって練習する” ためのものです。
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■2.「遊ぶ瞑想」は何が違うのか?
遊ぶ瞑想は、動的瞑想とはまったく違う方向を向いています。
🔶(1)修行的な目的がなくても構わない
動的瞑想は「悟り」「空性」「解脱」が目的。
しかし遊ぶ瞑想は、
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雑念にボールを投げる
-
雑念と会話する
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雑念の中に飛び込んで泳ぐ
-
雑念を探しに行く
-
雑念を観察ではなく“遊び相手にする”
というように、
目標や悟りを狙わず、まずは自分の心の動きと遊ぶことそのものが目的。
🔶(2)構造がない
この遊びには、厳密な構造はありません。
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上手くいかない日もOK
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集中できない日もOK
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雑念だらけでもOK
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心が重い日でもOK
動的瞑想のように
「こうしなければならない」
という明確な手順が存在しません。
その時の気分で、自分で遊び方を変え、好きにルールを生み出して、楽しむ。
無限に自分の形を生み出し続ける、精神的な遊び。
その結果として、瞑想とは、無限に自由に遊べる「遊び場」になる!
🔶(3)無理しない
遊びなので、無理をしないことが大切。
やりたくないのなら、無理に続けることもなし。
動的な瞑想ではときに、
「今の自分を超える」「心を変容させる」といった
“変化を起こすこと” が重視される場合があります。
僕が勝手に行っている「遊ぶ瞑想」は、では無理しない。
変化が起こらなくても気にしない。
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怒っているなら、その怒りと遊ぶ
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不安があるなら、不安と会話する
-
落ち込んでいるなら、落ち込みを抱きしめる
自分を変えようと力むと、
心は固くなり、ますます動けなくなることがあります。
逆に、
変えようとせずに寄り添うと、
心は自然に軽くなっていく。
遊ぶ瞑想は、その自然な動きを促すもの。
その他色々な意味で、無理をしない。
🔶(4)雑念を“敵”にしない
動的瞑想には、「雑念の浄化」や「雑念を克服する」為にすることがあります。
しかし遊ぶ瞑想は、雑念がなければできません。
雑念は大切な遊び相手! 楽しく遊ぶ遊び相手が存在しなければ、困ってしまう。。。。
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雑念を仲間のように扱う
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雑念と会話する
-
雑念の中に泳ぎに行く
-
雑念と戯れる
というアプローチ。
雑念に抵抗しないから、雑念が自然に弱まる。
これは動的瞑想にも受動的瞑想にもない、
とても変わった方向性です。
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■3.動的瞑想 vs. 遊ぶ瞑想
違いを整理すると、こうなります。
| 性質 | 動的な瞑想 | 遊ぶ瞑想 |
|---|---|---|
| 目的 | 悟り・変容・浄化 | 楽しむ・軽くなる・仲良くする |
| アプローチ | 世界を構築する(観想) | 雑念と遊ぶ(Play) |
| 始まり方 | 手順・構造がある | 何も決めず始めてOK |
| 雑念の扱い | 浄化・手放す対象 | 遊び相手・対話相手 |
| 強さ | 修行的・宗教的・重い | 軽い・柔らかい・日常的 |
| 結果 | 高度な意識状態へ | 自然に静けさが生まれる |
| 誰向け? | 深い修行を求める人 | 現代の忙しすぎる普通の人 |
■4.なぜ現代人には「遊ぶ瞑想」が必要なのか?
現代人は、忙しく、働きすぎ、考えすぎで
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気づけば常に緊張
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何かを成し遂げようとする
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心が固く、重く、疲れている
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完璧主義
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自責思考・自己肯定感が低い
そんな人が多い時代です。
そんな時に、「ただ雑念を観察」しても、出来るわけがありません。。。(受動的な瞑想)
でもその代わりに「動的な瞑想」をやると、
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つい“正しくやろう”としてしまう
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“うまく出来ない”という自己否定が起きる
-
安心より、緊張が増える
ということが起きやすい。
だからこそ、
🔶努力しないでただ遊ぶ
🔶雑念を遊び仲間として扱う
🔶瞑想を“遊び場”とすることで自然に心がほどける
そういう瞑想が、
現代人には向いていると思うのです。
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■5.遊ぶ瞑想は“セルフセラピー”でもある
雑念の中に入っていくと、
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あ、こんなに疲れてたんだ
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あ、怒りを溜め込んでいたんだ
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あ、不安だったんだね
-
あ、心が助けを求めていたんだね
と気づく瞬間があります。
これは心理学で言う
セルフ・コンパッション や パーツワーク に近い効果です。
雑念にやさしく話しかけることで、
心の奥にある“ほぐれていない感情”が緩み、
深い安心感が生まれることがあります。
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■6.最後に
動的瞑想も素晴らしい実践です。
しかし、それは悟りを目指すための構造化された方法です。
あなたの「遊ぶ瞑想」はそのまったく逆。
構造も目的も持たず、
心の動きと戯れながら、
自然と静けさへ戻っていく。
どちらが上・下ではありません。
ただ、時代が求めているのは、
努力ではなく、自由。
修行ではなく、遊び。
克服ではなく、仲良くすること。
その意味で、
遊ぶ瞑想は、現代人の心を楽にする“第3の瞑想”だと感じています。

