豊かさとは何か? 多次元的な豊かさ 立体的多次元的な価値観 垂直型価値観 AI社会
<豊かさとはなにか? 多次元的な豊かさ 立体的多次元的な価値観 垂直型価値観>
~ AI・シンギュラリティ社会と豊かさ
人間はだれでも、もっと豊かになりたい、もっと豊かさを体験したいと思って、毎日生活しています。
また豊かさと聞くと、「多くのXXX」を持っている事、例えば、
沢山旅行出来たり、沢山の家やマンションを持っていることや、沢山の知識や経験を持っている。。。。
という具合に考えられていることも多いように思いますが、
ここに、根本的な勘違いがあるのです。
「豊かさは一面的ではなく、多元的(多面的)に考えられるべきである!」
などと時々耳にしますが、
本来は、「多次元的」に考えられなければいけない。
多元的にとどまらず、多次元的にです。
なぜなら、いつものこの3次元だけではなく、脱3次元的、すなわち多次元的に考えられて初めて、
3次元での普段の豊かさが、大きな広い目から、「豊かに」位置づけられて味わえるようになるのです。
この3次元的な体験だと、小さな小さな豊かさしか体験できない。
いくら沢山の旅行をして、沢山の知識や経験を積んでも、
しょせん同じ次元の内側という、小さな枠からは出てはいないことを知らねばなりません。
旅行だって、多次元的にできます。(意識の旅行)
知識や体験も、多次元的に楽しめます。(別次元での知識や体験の獲得)
だって、何をかくそう。。。本当はこの世の中、この3次元の外側は、
無数の異次元で囲まれているのですから、これ当たり前!
ですから、沢山の異次元体験を豊かにしているということが、豊かさの探求の必要条件になる。
そういう事です。
(ただし、異次元体験=変性意識体験は、それこそ無数にあり、レベルも種類も沢山あるがゆえに、量以上に、質の問題が重要になるが。 )
同じように、価値観というのも、平面的に追及するものでは、本来はありません。
3次元の中におさまっていては、いつまでも同じ様なところを、グルグルとしているだけで、
「どんぐりの背比べ」の様に、豊かな事も、貧しい事も、実は同じ地平線の上での、似たような出来事にしかないからです。
そしてそれが全てであると、信じ込まされている。
ここに、現在の社会の限界と矛盾があります。
ですから、価値観も、平面型ではなく、立体的で垂直方向にも、おおいに追及されねばならない。
立体的多次元的な価値観。垂直型価値観。それが味わえて、やっとバランス感覚が出てくるのです。
そのバランス感覚がないところで、一部だけが拡大されてしまっている、すなわち、
3次元上での体験に基づく価値が、絶対化されてしまっている危うい社会に、今我々は気が付かずに甘んじています。
このあたりを、真面目に考えずに、「AIだ、シンギュラリティだ」と、追い求めるのは、
次の社会をまた、狭い範囲に貶めることになります。
次の社会は、立体的多次元的な価値観、垂直型価値観や体験を中心に据えて、考えるべきなのです。
そうでなければ、本来の豊かさ・幸せがなんであるのか、全く気が付かない中で、
AIやロボットなどのテクノロジーが、人間を色々な場面で凌駕してしまうという、人間性の喪失につながります。
AIなどに、3次元ではたとえ追い越されて、凌駕されても、
それでも人間側としては、「全然影響を受けようがない」という、
浸食されようがない、不可侵領域・聖域としての、異次元特に高次元体験に、
基礎づけられた、本来の人間の存在と価値の体験。
この様に、多次元的な本来的な人間の姿を回復するという、人間社会が垂直方面に成長することで、
人間性や豊かさを取り戻すことが大切になると思っています。
最後にまとめて言えば、人間性の危機を脱するには、垂直に、すなわち多次元的に価値を体験していく。
その広い多次元的な、沢山の異次元体験を豊かにして、その上で、
AIやロボットと向き合っていく。
そうなるべきなのです。
「ベーシックインカム」だって、広い広い多次元世界の中の一部の体験として、考えられてこそ、
幅広い見方ができるというものではないでしょうか。
豊かさ・貧しさの定規を、極限にまで広げて、それで、ベーシックインカムとはどうあるべきかが議論されるべき。
そう考えてます。